川本梅花 フットボールタクティクス

【ノンフィクション】異国の地で取り戻した原点―シンガポールでサッカーと向き合った新井健二―【無料記事】

異国の地で取り戻した原点
―シンガポールでサッカーと向き合った新井健二―

プロローグ

本サイト「川本梅花 フットボールタクティクス」で守備戦術の解説やセンターバックの心理面にも言及してくれている、新井健二の物語をお届けします。

新井と初めて会ったのは、いまから7年前のこと。私は彼から、渋谷のファミリーレストランで話をうかがった。新井を紹介してくれたのは、現在、水戸ホーリーホックにいる西村卓朗強化部長である。西村強化部長が現役選手だった時、シンガポールのクラブへ移籍を考え、シンガポールに短期間滞在していた際に、案内役をしていたのが新井だった、と聞かされていた。

私は新井に、一度、西村強化部長のプレーについて尋ねたことがある。

「新井くんは、シンガポールで卓朗と一緒に練習したの?」

「はい、西村さんのパスを受けましたよ」

と、新井は答える。

「どうだった? ボールを受けた印象は?」

私がそう聞くと、彼はすぐに返事をする。

「僕は、いろいろな国の選手のパスを受けています。シンガポールに来てから、イギリスや中東、南米の選手たちとサッカーをやっています。そうした中で、パス交換をしただけで、パスの威力やボールの軌道によって、その選手がどのレベルにあるのか、すぐに分かるようになりました。卓朗さんのパスは『ああ、Jリーガーのパスだな』とすぐに分かりました。蹴られたボールが生きている、というか」

私は、新井のこの感想を聞いて、「表現が分かりやすくて面白い」と思った。同時に、「サッカー解説の切り口も面白いかも」と感じた。

新井には、日本代表の守備に関する取材に答えてもらっている。今回は、8月31日に行われるW杯アジア予選のオーストラリア代表戦を前に、6月13日に1-1で引き分けたイラク代表戦を語ってもらった。そこでも、非常に面白い視点がある。読者の皆さまにはまず、新井健二がどんな選手であったのかを知ってもらいたい。そのために、このノンフィクションを掲載することにした。

どうかお読みください。

解雇かシンガポール行きか

アルビレックス新潟に加入していた新井健二は、プロ生活3年目を終えようとしていた。新潟在籍中、彼のリーグ戦の成績は、1年目は20試合に出場したが、2年目は2試合、3年目は4試合。しかも、ほとんどが途中出場だった。新潟から解雇通告をされても不思議ではない状況にあった。しかし、実際にクラブハウスに呼ばれてクビを告げられた時は、目の前が真っ暗になってしまった。

「これから何をすればいいんだ」

と新井は、途方に暮れる。

第二の人生の設計図は全く描いていなかった。「お世話になりました」と最後の挨拶をしようとした。その際に、クラブ側から1つの提案が出される。

「シンガポールに行ってみないか?」

「え?! シンガポールですか?」

「ああ。アルビレックス新潟シンガポールというクラブを立ち上げるから、そこにレンタル移籍という形でキャプテンをやって現役を続けてみてはどうだろう。もちろん、現地で活躍すれば日本に戻ってプレーできるチャンスもある」

「分かりました。少し考えさせてください」

そう言って新井は、クラブ側の提案をいったん持ち帰ることにした。

新井はその日の夜に、大学時代の恩師の秋山隆之(現新潟医療福祉大学サッカー部部長)に電話をしている。秋山は、ジェフユナイテッド市原・千葉の強化部にいて、立正大学監督だった。新井がプロになれたのも秋山が大学で彼にサッカーのイロハをたたき込んだからだ。そして、新潟のスカウトに新井を推薦したのも秋山だった。

「(新潟の契約が)ダメになってしまいました」

と新井は、か細い声で話し出す。

「そうか、お疲れさま」

秋山のいたわる声が返ってくる。

「でも、シンガポール行きの話があるんですけど、どうしようか迷っています」

2人の間に少しだけ沈黙があった。秋山は静かに話を切り出した。

「その話は、自分にとっていいオファーだと思って受けたらいい。今後の道は自分で決めていかないといけないからね。海外移籍という話があるんだったら、チャレンジしてみたらどうだろうか」

電話を切ってから「どうしようか」と、しばらく考える。新井は、新潟で味わった自分のふがいなさをかみしめた。それと同時に、秋山が助言してくれた、「チャレンジ」という言葉が頭を駆け巡る。

「『クラブからシンガポールはどうか?』と言われて、最初は、がっかりしたんです。でも、向こうで活躍したらJリーグの新潟に戻れるかもしれないという話をされて、秋山さんにも『チャレンジしてみたら』と言われたので、迷ったあげくシンガポールに行く決断をしました」

このような決断をするまでの新井は、いったいどんな経験を積んで、どんな生活を送ってきたのだろうか? それは新井がシンガポールに渡ってやってきたこととは逆のことだと言ってもいい。新井がプロのサッカー選手だと自分自身が自覚を持つまでには、日本で彼は、どうであったのかを語らないわけには行かない。

プロの洗礼。たった一度のミスがトラウマに

開幕試合のスターティングメンバーを告げられたのは2日前だった。ミーティングルームのホワイトボードに書かれたメンバー表は、大きな紙で覆い隠されている。コーチがその紙をめくった時に、センターバック(CB)の場所に新井健二と記された自分の名前を見つける。

「頑張るしかない」という意気込みと同時に、「なんとかなるだろう」という割り切った気持ちが交差した。新井は、立正大学を卒業して2001年に、当時J2のアルビレックス新潟に加入する。当時の監督は反町康治(現松本山雅FC監督)だった。反町は、大学を卒業したばかりのルーキーを開幕試合でいきなりスタメンに起用する。新井は、反町の期待に応えてルーキーらしからぬ落ち着いたプレーで新潟のディフェンスの要になりつつあった。

最初に新井がプロの世界の厳しい洗礼を受けたのは、2001年3月に竣工したビッグスワン・スタジアムの柿(こけら)落としとなった試合である。それは、5月19日、J2リーグ第12節、京都パープルサンガ(現京都サンガF.C.)との一戦。観客は3万1964人が集まる。試合は、延長戦に入って一進一退を繰り返していた。新井への試練は、試合終了間際の119分に訪れる。それも突然に、試練というモノが、新井に襲いかかったのだ。

京都の選手がペナルティエリアに進入してくる。新潟の守備陣が慌てて相手に体を寄せる。相手選手が、GKと一対一になるために、プレスを振り切って突破しようしたその瞬間、新井の出した足で相手の選手が倒れてしまう。主審はPKを宣言して、新井にはレッドカードが突きつけられる。

「結局、あの試合は、僕のせいで3-4になって負けてしまったんです。レッドカードで退場させられた後のことは、何も覚えていない。どうやってベンチに戻ったのかも、はっきりしないんです。試合が終わってからロッカールームで、『すいませんでした』と反町さんに頭を下げました。せっかく僕を信頼して開幕戦から使ってくれていたので、ただただ、『申し訳ない』という気持ちしかなかった。『ああ、もう使ってもらえないかもしれない』と思っていたんですが、出場停止明けの試合に、また使ってくれたんです。(モンテディオ)山形戦だったんですが、その試合には勝利して僕個人も自信になりました」

試合後に反町は新井を捕まえ、「この試合でお前を使わないで、退場した試合のまま、イメージを引きずってプレーしていたら、お前は終わっていたよ」と笑顔で言葉を掛けた。

新井に二度目のプロの厳しさを与えたのは、大分トリニータにいた船越優蔵(現JFAアカデミー福島男子U-14監督)だった。船越は、高校サッカー界の名門、国見高等学校を卒業してから1996年にガンバ大阪に加入する。その後、湘南ベルマーレを経て大分に移籍してきた。J2リーグ第15節、6月16日、新潟はホームに大分を迎えた。試合開始14分に船越が先制点を挙げる。試合終了前の89分には、再び船越のシュートが決まって、大分は3-2で新潟から勝利を得た。

「大分との試合が僕にとっては、大きな心の傷になりました。船越さんを抑えることができずに、2発ゴールをぶち込まれたんです。それから試合に使ってもらえなくなった。ちょうど試合中に雨が降ってきて、グラウンドがスリッピーな状態だったと思います。1点目は僕のカバーが遅れて、彼にシュートコースを与えてしまった。2点目は、振り向きざまで寄せ切れないままの態勢で、ものすごく足の振りが早いシュートを打たれたんです。体を寄せようと思った時には、もう振り向かれてゴールを決められていたという感じです。それも、利き足じゃない左足で決められたのがショックでした。2点目を決められたことがトラウマになってしまいました」

実は、新井は大分戦の前日の練習中に左膝を痛めていた。当時のフィジカルコーチは、「テープを巻いてプレーするくらいなら試合に出るな!」という指導をしていた。本来は、リハビリで1週間くらい様子を見るところだ。そうすれば痛みは治まっていたかもしれなかった。しかし、「試合に出たい」という意欲と「ここで休んだらもう使ってもらえないかもしれない」という焦りが、新井を出場へと駆り立てた。

「結局、試合当日に痛みをこらえられなくて、テーピングを巻いて出ることになりました。いつもとは感覚が違っていた。それに雨でピッチが抜かるんで滑る感じだったので、余計に痛い足をかばって動きが鈍くなっていたのかもしれません。ただ、そうした違和感を抱えたまま出場しても、相手は容赦なく襲ってくるということ。『プロは甘くない世界なんだ』と実感しました。ちょっとしたコンディションの差が、これほどまで違う結果を僕にたたきつけてきた。いまでも思うんですよ、『ボールが来る前に寄せておけば、やられなかったかもしれない』と」

自分の弱さを認められず、現実から逃げだす

たった一度の出来事が、新井をどん底に突き落とすキッカケになってしまう。それからの新井は、途中出場のチャンスがあっても、船越が放ったシュートの残像を記憶から消すことができないでいた。

「失点した場面を引きずってしまって、次に使われた試合でミスを繰り返した。畏縮してしまったんですよ。船越さんのシュートがいつも頭から離れなかった。開幕当初は、『試合に使われているんだから、十分に僕はプロのレベルに付いていけている』『J2のレベルならやれている』と思っていたんです。でも、『上には上がいるもんだな』と知らされた。『CBは1つのミスで結果が変わるポジションなんだ』と悟らされました。ただ、そこから監督の信頼を勝ち得ることができなかったのが、あの頃の僕の限界だったのかもしれません」と新井は語った。

プロ2年目になって、「もう1回やり直そう」と心に決めて新シーズンを迎える。しかし、トレーニングや練習試合を重ねれば重ねるほど、1年目の嫌な思い出がよみがえってくる。

「CBはトータル的に安定した人が入るポジションじゃないですか。調子に波がある選手が入ると、チームのバランスが壊れる。だから、監督にとっては、僕は使いにくい選手だったと思うんです。あの頃の僕は、まだ若くて、自分のメンタル面の弱さを断ち切れなかった。僕はマイナス思考だったんですよ。当時は、練習でうまく行かないと『今日もダメだったなあ』と、後悔ばかりする日々を過ごしていました。気持ちを切り替えることが、なかなかできなかったんです」

もしも彼がポジティブなプラス思考の持ち主だったならば、つまり「ダメなモノはダメで、思い悩んでも仕方がない」と気持ちを早く切り替えられたなら、実際に起こったこととは違った、大きな果実を得ていたのかもしれない。しかし、彼を待っていたのは堕落という別の甘い誘惑の方だった。

「僕は」

と言ったまま新井はしばらく黙った。

そして、彼は、当時の苦い思い出を語り出した。

「自分がダメだった時に遊びに走ったんです。試合に出ていない選手同士は、一緒にいる時間が長くなる。『俺ら一生懸命やっているのに、なんで使ってくれないんだよ』という話になって、お互いの傷をなめ合う。そこで、『一緒に飲みに行こうか』となって、お酒を飲みに行くようになった。僕は、自分の中にある精神的な弱い部分を見たくなくて、現実から逃げてしまったんです。その時は、いろんな人に意見を求めて、なんとか自分を立ち上がらせないといけないとも思ったんですが、誰にも相談はしなかった。練習は必死にやりました。どうにかして、はいつくばってでもレギュラーを取ってやろうと思ったけど、練習の前日の夜にお酒を飲んで遊んでいては、コンディションなんて上がるはずがない。『ああ、これじゃ本当にマズいな』と思った時には、すでに遅かった。練習でもがけばもがくほど、自分の本来のプレーとはかけ離れていった。そうしたギャップに耐えられなかった僕は、いつもどこかに逃げ道を探していたんです」

原点――毎日サッカー漬けの高校時代

新井がサッカーを始めたのは小学校4年生の時だった。

「周りの友だちがサッカーをやっていたので、やってみたくなったんです。それまでは、父の影響でソフトボールをやっていました」

新井の利き足は左である。利き手も左だった。そこで父は、手は左利きから右利きに直したのだが、サッカーをやっていた足は右利きに直さなかった。「貴重だってずっと言われてきたんです。その時に親に直されていなくて良かった。みんなに、うらやましがられました」。利き足が左足だったということが、彼にはその後のサッカー人生の中で大きなメリットになる。

中学校は、地元の妻沼東中学校に入学する。そこのサッカー部は、県大会にも出られなければ、町の予選でも勝てない弱小チームだった。

「ひたむきに一生懸命サッカーをやるという感じだったんですが、自分はへたくそだと思っていて、よく折れずに辞めなかったなあ、と思います。中学はサイドハーフで攻撃ばっかりやっていた。その頃から体格が大きくなって、兄と姉がよく『お前、拾われてきたんじゃないのか?』と言うくらい1人だけ体が大きかったんです」

高校進学は、常磐高校(群馬県太田市)に決める。そこでは、セレクションを受けて合格して、特待生での入学を約束された。しかし、彼の持病が問題になって、特待生入学は取り消される。

「僕は、心臓の病気があったんです。WPW症候群(不整脈から生じる心臓病の一種で現在ではカテーテル治療で90パーセントが根治するとされる)といって、普通の人より(Kent束と呼ばれる副伝導路の)線が1本多い。発作が起きてしまうと拍動リズムを乱して失神してしまうことがあって、子供の頃に2回手術しているんです。1回目の手術は失敗して、悪い部分を取り切れなかった。2回目は成功したんですが、中学の先生が『彼は心臓の病気があるから、もしかしたら特待生でとっても難しいかもしれない』と高校に話したことで、一般入学になりました」

高校では、午前中に授業に出て、午後はサッカーの練習にあてられる。「ほとんど毎日サッカー漬けで、サッカーだけに集中できる環境です。日曜日に2、3試合をこなすのは普通で、『よくやれてたなあ』と思いますよ」と当時を振り返る。

「3学年で部員は100人くらいいました。3年になってキャプテンをやったんですが、高校は、戦術とか技術とかよりも、試合に出ていないヤツのために、応援して見にきてくれた人のために頑張ろうと言ってきた。自分のためにとかじゃなくて、監督のためにとかでもなくて、誰かのためにという気持ちだけでしたね」

練習前と練習後にスピーチがあった。新井は部員を前に「元気がない選手が見られるけど、1人が下を向くとみんなが下を向く。みんなが上を向いて声を出せれば、きっとチームも勝てるよ」と毎回言い続けたという。

「僕がうれしかったのは、誰1人として挫折して部活を辞めるというヤツが出なかったことです」と話す。ただし、その時に経験した高校サッカーの指導には疑問を持っていた部分もあった。

「高校では、やらされているサッカーでした。根性論じゃないけれど、技術うんぬんよりも走れというサッカーだった。『気持ちの面で相手に負ける』ということを前面に出していました。その時は、正直に言えば『つらいな』とか『嫌だな』という思いはあったんですが、いまから振り返れば、高校時代に根性論というやり方に触れてしごかれたので、大学に入っても多少の厳しい練習には耐えられたし、乗り越えられたんだと思うと、ありがたく感じます。ただ、プロになってから考えたのは、高校時代の根性論的な指導が良かったのかと言えば、そうでもないんです。プロに入ってからの相手の圧力とかプレッシャーがすごくて、根性論だけでは乗り越えられないモノがありました」

新井が特別に強くなかった高校で頑張れたのは、中学の時から憧れていた選手の存在があったからだった。それは新井と同年代で中学から全国で名前が知られていた大野敏隆である。

「大野を初めて見たのは、中学の大会でした。実際に大野のプレーを見て、パスやトラップが正確で『おお、すごいな。同じ年代でこういう選手がいるんだな』と思ったんです。大野は南橘中学校にいて、全国大会(1993年の第24回全国中学サッカー大会で準優勝して得点王になる)に行っていたんです。『彼は有名な選手だから、きっとこの先にプロに行く。だから、彼と試合で対戦できればサッカーがうまくなる』と考えたんです。それで、群馬県の高校に行けば、大野と対戦できるだろうと。前橋商業高校は、エリート集団だったので、僕のようなレベルの選手はセレクションにも受けられなかった。だから、下のレベルからでもはいあがって、いつか、同じピッチに立って試合で打ち負かそうと思ったんです」

前橋商業高校に進学した大野と初めて対戦したのは、新人戦の時で、0-2で常磐高校は敗れる。

「CBで出場したんですが、試合に負けて泣きました。僕の中では、大野と対戦して試合に勝つという目標で、自分のモチベーションを上げていたから。でも、新人戦だからこれからも対戦する機会がきっとあるだろうと思って気持ちを切り替えました。こんなところで泣いていたらダメだ、と。チームメイトには『なに泣いてんだよ。次は勝てるよ』と言われたんです。いま考えたら、こんなところで泣いているぐらいだから、メンタルが弱かったんですかね」

その後、新井は大野がいる前橋商業高校と一度だけ対戦する機会があった。インターハイの県予選。試合はまたも1-3で常磐高校が敗れる。「高校は、いつもベスト4より先には行けなかったですね。前橋商業高校や前橋育英高校には及ばなかった。大野と何度か対戦するチャンスがあったんですが、その一歩手前で負けてしまって、大きい舞台では結局、対戦できませんでした。『ああ、またここまでか』と。彼とは運命が違う方向にある。レベルが違ったんだと思い知らされました」。

大野には、当時10チームのクラブからオファーがあったと言われている。一方の新井は、「高校では自分は無名な選手でしたし、大きな大会にも出場していないから目立っていたわけではない。それに、へたくそだったので、もう1回、大学で鍛え直そうと思ったんです。大学には、いろんなところから選手がやってくるから、立ち位置を見つめ直すというか、自分には何が足りていて何が足りないのかを知りたかった」と考えて、立正大学に進学することにした。

考えるサッカーとの出会い

立正大学サッカー部のセレクションには120人が参加したのだが、合格したのは10人だけだった。新井は見事、合格者に名前を連ねた。そこで知り合った監督、秋山隆之との出会いが、新井をプロのサッカー選手になるべく育てたと言っても過言ではない。

「1年生はベンチにも入れず、でしたね。選手のレベルが高く、自分は『こんなにレベルが低かったのか』と思いました。監督からは、守り方から始まって、サッカーの基本を徹底的に教えてもらいました。大学に入るまでは、ただ、相手に負けないように体をぶつける感じで守備をしていた。ある時に、Jリーグのクラブのサテライトと試合したんです。『このレベルに行くには、まだまだ努力が必要だな』と思って、試合後に、監督に『この時にどうすればいいんですか』と守備に関して聞きに行きました。練習でも、自分がダメだった時は指摘されて、なんでダメなのかを話された」

新井がCBをやったのは高校からだったが、「いくつかのポジションをやれた方がいい」という秋山の助言から、サイドバック(SB)もやらされるようになる。練習中に左SBをやっていて、新井が味方のCBに横パスを出した時だった。秋山はプレーを止めて新井を呼ぶ。

「お前、いまなんで横パスを出したんだ?」

「隣の味方の選手がフリーでいたからです」

と新井が答える。

「それじゃあ、相手は怖くないだろう」

秋山が聞き返す。

「ああ、そうですね」

「横パスなんて誰でもできる。そこに入れるんじゃなくて、もっと違う展開があるだろう? そんなパス、誰でも選択できる。小学生でも通せるぞ。前が空いているのに、横パスを出す必要はないんだよ。パスは状況によって優先順位というのがある。前に相手の選手がいないなら、どうするのがベストだと思う?」

「ああ、ドリブルしてから縦パスですか?」

「そうだ。それに、味方にパスを出す時には、もっと速いパスを出すようにする。いいな?」

「はい」

と、答えた新井は、1本の縦パスでどれだけ局面が変わるのかをその時に知る。

「僕も分からないなりに一生懸命やったんですが、監督が逆に僕に歩み寄ってきてくれたんです。監督は、ヒントを与えてくれる。先に答えを言ったら簡単なんですが、遠回しにでも分からせるように言ってくれた」と新井は話した。

大学2年生になると、新井はスタメンで試合に出られるようになる。東都大学リーグは、関東1部と2部に分かれる。次第に、新井にももっと上を目指せるかもしれないという欲が出てくる。「大学からプロを目指してもいけるんじゃないか」という気持ちが芽生える。「上にいる選手をはねのけても前に行くぞ」という意志も出てきた。そうした意志を彼に持たせてくれたのが秋山だった。

「監督と出会う前までは、ただがむしゃらにサッカーをやっていたんです。考えてサッカーをやる、ということはなかった。監督と出会ってからですよ、プロという目標を持てるようになったのは。まさか、プロになれるとは思っていなかったんですが、もっと頑張ったらプロに近づけるかもしれないと。もう1回1回ですよ、監督がアドバイスしてくれたのは。考える力を持ってプレーするとか、頭を使ってサッカーをやっていこうとかを教えられました。大学のシステムは、『4-4-2』だったんですが、中にいる味方のボランチにボールを寄せさせるように、外を切って中に持っていくなどのやり方も監督に、『こうやっていけばいいんですかね』と聞くと『そうだ。やっていけばだんだん分かってくるだろう』と言われて自信も付いていったんです」

大学3年生の終わりに、「お前、キャプテンにするから」と秋山に言われる。

その時に新井は、120人のトライアウト生の中からどうして自分を選んだのかを聞く。秋山は、「左サイドから逆サイドまで蹴れる選手はいない。これから成長すると思ったからだよ」と話される。新井が、新潟に加入してプロになれたのは、新潟の強化部の人と秋山が知り合いだったことから、「いい選手がいるから見にきてくれ」と伝えたことがプロ入りのキッカケになっていた。

異国の地で取り戻した「サッカーと向き合う気持ち」

秋山の勧めもあってシンガポール行きを決断した新井は、「ほかの選択肢がなかった」と話す。結果として、もう一度、プロのサッカー選手として自分を再生させるためにシンガポールへの移籍を決断することになったのだが、移籍話を持ちかけられた時には、サッカーを続けるためにそれ以外の道が、新井にはなかったのだった。アルビレックス新潟シンガポールには2年間在籍した。リーグは10チームで構成されて、移籍初年度にチームは5位の成績を収める。

「レベルは高くなかった。Jリーグと比べたら低いと思ったんですけど、イングランドやブラジルや南アフリカなど、いろいろな国の選手がいたので、サッカーの勉強にはなりました。スタイルは、ロングボール主体のサッカーでした。イングランドの2部以下のクラブがやっているようなキック&ラッシュですよ。FWに体の強い選手がいるとボールが収まってしまう。日本には全くないスタイルでしたね。僕らのチームは、ボールをつなぐサッカーをやっていたんですが」と移籍当初に感じたシンガポールサッカーの質を説明する。

異国に渡って、2シーズンを終えると、再び新井に転機が訪れる。

「2年間プレーしたアルビレックスから『現地契約もレンタルもしません』というゼロ契約を提示されたんです。ちょうど25歳だった。キャプテンをやっていて、CBでスタメンとして試合に出ていたんですが。そうしたら、日本からオファーがあって、徳島の強化部の人が『練習参加しないか』と言ってきた。JFLのクラブからも移籍の話がありました。それと毎年2位になっているシンガポール・アームド・フォーシズFCからオファーがきたんです。監督とゼネラルマネージャーが会いにきて、『優勝したいからぜひ来てくれ』と説得されました。彼らの話を聞いて、『日本に帰る選択を捨てて、こっちでやろう』と決断したんです」

シンガポール・アームド・フォーシズFCには、4年間在籍(2006-2009年)して、チームを4連覇に導き2年連続でリーグMVP候補になった。

「優勝できるチームに行こうと思ったんです。2年間シンガポールでプレーして毎回試合に出て、気持ちも全く変わってきたんです。『サッカー選手は試合に出てこそ成長する』ことをあらためて知った。結局、試合に出ていないと経験自体を積めないですから。ゼロ契約を提示された時は、『またダメだったのか』とショックだったんですが、日本の新潟をクビになった時点で、『終わったと思われた選手』だったのに、シンガポールのクラブと日本のクラブからオファーがあって、『見ている人は見てくれているんだ』と思いました。そうしたら、『誰かを見返してやる』とか、そんな気持ちはどうでもいいことだと気づいたんです」

それまで日本語しか話せなかった新井は、シンガポール・アームド・フォーシズFCに移籍してから英語の習得に力を入れて半年で語学をマスターする。加入当初は、「言葉も話せないでなんなんだ」という態度を取っていたチームメイトや監督が、語学が上達すればするほどリスペクトしてきたと言う。

「僕にはもうサッカーしかありませんでした。ギャンブルをするとか、お酒を飲むということは全くしなくなった。人生にとって、サッカー選手にとって、何が優先されるのかを知らされたんです。練習が終わって家に帰ると、イングランドのプレミアリーグを見てサッカーの勉強をして、ジョン・ウイルキンソンというチームメイトの家に行って、毎日英語の勉強をしながら練習の内容の話をする。日本を離れたことで、『こんなにもサッカーと向き合えるようになったのか』と、ふと思ったりします。シンガポールで僕は自分の原型というか、本当はこんなプレーヤーになりたかったというモノを取り戻したんです。『ああ、もうダメだ』って諦めるのは簡単なんですよね。シンガポール行きを告げられた時に諦めないで本当に良かった」

シンガポール行きを勧めた秋山に、いまの新井ならば、なんと言葉を掛けるのかと問うてみた。すると彼は、次のように話した。

「プロになるキッカケを作ってもらい、サッカーの戦術や技術を教えてもらったんですが、大学では僕に秋山さんは毎日言葉を掛けてくれたんです。シンガポールに渡って8年目になるんですが、ここでは一度もケガをしていない。目標は40歳まで現役でプレーすることだと言っているんです。シンガポールでオファーがある限り、体が動く限り頑張ります。自分に対して苦しい時でも逃げないで挑むということを教えてくれた秋山さんには『ありがとうございます』の言葉しか言えません」

誰かが手を差し伸べなければ、その人がステップアップすることは難しい。新井にとっては、秋山がそうした人物だった。そして、2011年にシンガポール・ユナイテッドFCに新天地を求めた新井は、シンガポールリーグで最も結果を残した日本人である、と語られる存在になったのである。

エピローグ

記録に残る選手と記憶に残る選手がいる。新井健二は、シンガポールの地で、どちらにも該当する選手になったと言える。

新井がいかに優秀な選手として評価されていたのかは、以前シンガポールでプレーしていた伊藤拓真(ラインメール青森FC)の話を聞けばよく分かる。

https://www4.targma.jp/baika/2017/05/06/post529/

――じゃあ、伊藤くんの自己紹介も兼ねて、いろいろ聞きたいんですけど。まず、シンガポールでプレーしていたんですか? シンガポールって言えば、僕は、すぐに新井健二くんのことが頭に浮かぶんだけど。

伊藤 ああ、アラケンさんはもちろん知っていますけど、直接話したことはないです。もう、アラケンさんは有名で、すごいプレーヤーだったので。

「ケガをしていない」と話した新井は、2012年に現役を引退していた。その理由は、いくつか挙げられるのだろうが、1つには「ケガによるモノだった」と耳にした。現在の彼は、埼玉県熊谷市で「Fly High Soccer school」代表として少年サッカーの指導に当たる。私が、新井と関わってきて、彼の印象を聞かれれば「正直な人」とまっさきに言う。彼の正直さは、東南アジアで揉まれた経験から養われたモノなのだろう。彼は、「人」として「信頼」できる。

私は、彼とのサッカー談義をいつも楽しみにしているのだ。読者の皆さまも、ぜひ、楽しみにしてください。

川本梅花

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