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無料掲載【草魂】ザスパ・レジェンドインタビュー 籾谷真弘氏(2002〜2006年)「僕らは昇格しかしていない」「うまさではなく強さが求められていた」

無料掲載【草魂】ザスパ・レジェンドインタビュー 籾谷真弘氏(20022006年)

「僕らは昇格しかしていない」

「うまさではなく強さが求められていた」

 

 

 

籾谷真弘氏は2002年に誕生したザスパの“初期メンバー”として加入、2004年末のJ2昇格に貢献した。2006年までザスパでプレーしたのち、当時北信越リーグだった長野へ移籍し2012年に現役引退。今は、館林市の少年サッカーチーム・FCクレアデール館林邑楽の監督を務める。ザスパの象徴として多くのサポーターから愛された“モミ―ニョ”に当時のザスパを振り返ってもらった。

 

 

「限界まで頑張ることで夢がみられた」

 

——ザスパの現役時代を振り返って?

 

「僕たちの時代は、ガムシャラでした。あのときに比べたら、いまは雑草魂が薄れているかもしれないですね。僕らの時とは時代も環境も、変わっているので」

 

——働きながらJ昇格を目指した。

 

「そうですね。温泉街で働きながら練習していました。仕事があったことで、周囲への感謝は強かったです。地域への感謝が、頑張れた理由かもしれません」

 

——どんな気持ちでゲームに臨んだ?

 

「県リーグからのスタートで、一度でも負けたら、解散と言われていました。失点もするな、と。一敗したら、全部がストップしてしまう中で、緊張感を持ってプレーしていました」

 

——どんな選手たちの集まりだった?

 

「自分を含めて、Jリーグでやっていた選手がクビになって、草津温泉に集まってきました。Jリーグの選手に負けたくなかったし、だからJリーグへもう一度上がりたかった」

 

——2003年のtonan(図南)との関東リーグ昇格戦は覚えている?

 

「もちろんです。忘れることができない試合です。いま振り返ると、あれがすべてでした。あそこで負けていたら、終わっていたと思います。1−1の延長戦でも決着せずPKになりました。ノブさん(GK小島伸幸)が頑張ってくれて、PK勝ちしました。勝った瞬間にサポーターがグラウンドへ流れ込んできて・・・あの興奮はいまでもはっきりと覚えています。あのチームには絶対に負けたくなかったし、あれがザスパの分岐点だったと思います。魂を込めて戦っていましたから」

 

——いまの選手に伝えたいことは?

 

「原点を知ってほしいですね。ザスパは草津温泉で誕生したクラブで、みんなが働きながらプレーしてJ2へ上げました。練習の初日は、雪が積もる駐車場でした。環境は厳しかったですが必死に戦いました。その泥臭さが大事なんじゃないでしょうか。僕たちは生活がかかっていたので」

 

——違いは何?

 

「いまは負けても、チームがなくなることはないですが、僕らのときは本当になくなってもおかしくなかった。クラブスタッフが苦労しているのも見ていたし、クラブ消滅は現実問題でした」

 

——ザスパで学んだことは?

 

「いまはJ3ができて、地域リーグにも光が当たっていますが、僕らの時代はそうではなかった。僕の場合は、セレッソをクビになって、いきなり県リーグだったので絶対にはい上がってやろうと思っていた。うまさじゃなくて、強さが求められていたと思います。限界まで頑張ることで夢がみられるということを教えてもらいました」

 

——セレッソ時代を振り返ると?

 

「ユース時代は世代別の代表にも入っていて、そのままトップ昇格しました。完全に天狗になっていましたね。クビになってザスパに来たことで、鼻をへし折られました。人生、甘くないって」

 

——ザスパはいまJ3の降格の危機だが?

 

J2とJ3はぜんぜん違う。だから、残留しなければいけないと思います。いまはまた群馬に住んでいるので、特にそう思います。子どもたちのためにも残らなければいけないと思います。いまはサポーターが離れてしまっていると聞いていますが、ザスパは夢を与え続けるクラブでなければいけないと思います」

 

——入れ替え戦を勝ち抜いて昇格していったが?

 

「僕たちは、前しかみていなかった。必死でやってきたから、ポイントとなるゲームで奇跡が起きました。僕らは昇格しかしていない。だから、下に落ちる姿は考えられないです」

 

 

——今は指導者として、ザスパと対戦しているが?

 

「あのユニフォームには負けたくない気持ちが強いです(笑)。ただいつも思うのは、僕らがJ2に昇格できたから、ザスパのアカデミーがあるということ。『僕たちのおかげ』とかは言うつもりはないですが、ザスパに携わるみんながクラブの歴史を理解して地域に愛されるチームになってほしいと思っています」

 

 

【取材を終えて】

ザスパの初期メンバーだ。セレッソを戦力外となって、県リーグのザスパへやってきた。「もう一度、Jリーグへ」の言葉を胸に努力を続けた。2002年のクラブ誕生当時、多くのTVが草津温泉へ取材にやってきた。温泉旅館で働いていた元Jリーガーは、多くのメディアに取り上げられ、クラブPRに大きな役割を果たした。サポーターはみんな、籾谷のことが大好きだった。地域を愛し、サポーターを愛した陽気なプレーヤーはザスパの象徴だった。先日、少年サッカーの試合会場で、偶然に籾谷と出会った。あの頃と同じ情熱でサッカー、そしてザスパについて語る彼にボイスレコーダーを向けた。「ザスパは夢を与え続けるクラブでなければいけない」。この言葉を聞いて、ハッとした。いまのクラブが、彼の“コトノハ”から学ぶことは多い。

 

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