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マッチコミッショナーの仕事とは?……現役の奥谷彰男が語る102分の1の名誉と重責【サッカー、ときどきごはん】

 

マッチコミッショナーとは具体的に何をしているのか? 2021年に起きたエントリー不備問題を巡り耳目を集めた「公式立会人」の仕事内容について、現役のマッチコミッショナー(2021年時点)である奥谷彰男氏に聞いた。長くレフェリーとして活躍し、現在は指導者としての研鑽を積む氏がこの仕事に感じているやりがいと責任とは?

 

■レフェリー引退時に遠藤保仁、川口能活からかけられた言葉

私がレフェリーを引退したのは2010年ですね。最終節の一つ前が万博記念公園競技場、最終節は長居競技場でした。

もちろん選手による胴上げはなかったんですけど、万博のときには遠藤保仁さんが握手してくれて「お疲れ様でした」って言ってくれて、最終節のC大阪vs磐田のときはベンチにいた川口能活さんがわざわざ来てくれて、「長い間お疲れ様でした」って握手してくれました。そういう気持ちのある選手っていうのは、ちゃんと覚えていてくれてリスペクトしてくれましたね。今はそれが観客の方にも広がっていて本当にうれしいですね。

僕は大阪の府立高校の一選手でした。教員になろうと思って日本体育大学に入ったんですけど、競技者としても頑張りたいという思いを持ってたんです。ところが他の選手とのあまりのレベルの違いに度肝を抜かれましたね。技術もすごいし、フィットネスも、スピードや当たりも全然違うので「これは大変だ。4年間続けられるかな?」と思ってました。

そもそもそのときのチームは強かったんですよ。僕が4年生のとき、関東学生リーグ優勝、インカレも優勝で、4年生は3人しか出てなくて、レギュラーメンバーのほとんどが3年生でした。有名なところでは市立船橋高校を何回も優勝させた布啓一郎監督が1学年後輩ですね。布監督は100メートルを11秒台で走るし、そんな選手がもうほとんどレギュラーでしたね。

今考えると寮生活と合宿所生活によく耐えたって思います。特に1年生のときは、言えないぐらいいろいろ厳しかったですからね(笑)。朝6時から夜11時に寝るまで本当にほとんど自由時間ないですよ。6時に起きてボール磨きして、午前中何とか授業に出られるんですけど、午後はまず練習のグラウンド整備が1時間、Aチームの球拾いが2時間。

やっと自分たちの練習が2時間で終わって、それから先輩の背中流したり洗濯したり、布団敷いたり、そんな雑用で1日が終わってしまうという、そんなスケジュールでした。そして何か失敗があると夜、屋上に集められて、コンコンとスキンシップが始まるわけです。

 

■審判になる気が全くなかった教員時代の転機

そのころは教員志望だったので審判を目ざすなんて気持ちは全くなかったですね。教員試験にはなかなか受からなかったんですけど、3回目でやっと大阪府の公立高校の教員になれて、初めは柔道部の顧問でした。

ただ赴任した最初の学校は進学校で、家から2時間ぐらいかかる遠い学校だったんですよ。それで住んでいるところの近くに大冠高校(開校当時は島上高校大冠校)という学校が新設されると聞いたんで校長先生のところに売り込みに行きました。

24、25歳で何の根拠もないのに校長先生に30分ぐらい自己PRするんです。「サッカー部の監督をして3年で大阪府のベスト8、5年で全国に出します」って。校長先生が「出なかったらどうするんだ?」とおっしゃるから、「そのときはもうクビにしてください」とね。それで何とか採用していただきました。

ただ、公立高校なんでサッカーの上手い選手を集められるわけじゃないんです。校長先生は先に退職されて、僕はなんとか残らせてもらったんですけど、やっぱり全国に出るまで10年かかりました。それでも30年ぐらい前ですからまだ公立高校が何とか生き延びる余地がありましたね。今はもうベスト16に公立高校は1・2校くらいしか残れないです。

大冠高校に赴任したとき、全国のレベルを確かめに自分1人で高校選手権とか、インターハイ、レベルの高い静岡のカップ戦なんかを自費で見に行ってました。そのとき「審判になったらそういうゲームが身近に体験できる」と思って、やってみようというのが審判を目指した動機です。

だいたい審判で上を目ざそうという人って大学時代から始めたりしますけど、だけど僕はそんなスタートだったもんで1級審判になったのが34歳です。1級審判員になれるのは35歳以下なんですよ。そのギリギリの34歳でやっとなりました。同期が吉田寿光さんで、2021年に家本政明さんに抜かれるまでJリーグ通算最多出場記録を持っていた方ですね。

審判をやっていたとき、僕たちの年代では教員が多かったですね。土日に自由が利くというか、プライベートを全部削ってやってましたからね。夏はインターハイ、冬は高校選手権で、お正月もお盆もないですし。

土曜日の午前中は高校で練習を見て、新幹線乗って東京へ行って審判をして、夜行で帰ってきて日曜日の朝の6時半には京都に着いているっていう週末でした。10何年間、基本的にそういう生活でしたね。元気で健康な体に産んでくれた親に感謝です。ありがたいですね。

審判を引退してからも高校での監督は続けていました。でも2015年から3年間教頭で2018年から3年間は校長と、管理職になっていったので現場とは離れてしまいました。その期間はサッカー部だけ見てるとよくないので、いろんな部活の合宿に行ったりしてました。

様々な競技を勉強できるという意味で楽しかったですけどね。バスケット、バレー、陸上、剣道、野球、バドミントンと車でいろんな部の合宿所巡りをするんです。2日で1000キロぐらい回りました。行ったら生徒は喜んでくれますからね。楽しい思い出です。

2020年に公立高校を定年退職した後は、2020年4月から昇陽高校にご縁をいただいて、総監督という形でサッカー部に関わり主に選手集めをさせていただいてます。6年ぶりに現場に復帰して、サッカー経験者の若いスタッフたち5人とやってるんですけど、勉強になりますね。

6年離れてる間に進化してる、近代サッカーではこういう教え方をしなきゃいけないと感じますよ。たとえば今、監督は大阪体育大学を出た方なんですけど、スペインのメソッド持ってきてるんですよ。プレーヤーに考えさせる練習をやったり、いろんな条件を与えて、しっかりボールを扱えるようにしたり。私が見てて勉強になります。またゴールキーパーコーチや他のコーチ陣も丁寧でかつ情熱を持って指導してくれています。

Jリーグから「ジャッジリプレイ」出演のお話いただいたときに、「昇陽高校サッカー部総監督」というテロップ入れてくれって言ったんですよ。それは、基本的には強豪校を目指してやってるんですけど、審判を目指す子にも来てもらえたらいいなということで、その名前も入れていただいたんです。

現役でも1人、今度入ってくる子にも1人、審判に興味があるような生徒がいますから、そういう意味では「昇陽高校に来たら審判活動もしっかりサポートするぞ」というメッセージになればいいと思ってます。

 

 

■多岐にわたるマッチコミッショナーの業務内容

マッチコミッショナーになったのは5、6年前だと思います。

マッチコミッショナーというのは一言で言うと、試合が安全に執り行われるのを見守る役ですね。選手、審判、それからファンの方にとって安全な興行が行われるのをきちんと見届けることが主な目的です。

 

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