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読売育ちのサッカー少年はなぜフットサル日本代表監督になったのか……木暮賢一郎の歴史を背負った戦い【サッカー、ときどきごはん】

 

中学3年でクラブを辞めた
高校でのJクラブ練習参加は実らなかった
1浪して入った大学では
門前払いのようにはじかれた

そのときの後悔を繰り返すまいと誓い
就職を辞め海外に行き
そして今は監督として結果を追求する
木暮賢一郎に半生とオススメのレストランを聞いた

 

■サッカーで挫折した苦い思い出

幼稚園のときにサッカーを始めたんです。きっかけは、父親が仕事でブラジルへ行ってサッカーボールやユニフォームをプレゼントしてくれことだと聞いています。あとはちょうどキャプテン翼世代だったり、幼稚園もたまたまサッカーが強かったというのもあると思いますね。

ただ、年中のときにサッカーをやりたいと思ったんですけど、そのとき通ってた幼稚園は年長からしか入れなかったんですよ。そうしたら年中の途中で引っ越した先の「さぎぬま幼稚園」では入れたんです。

そのさぎぬま幼稚園から「さぎぬまサッカークラブ」に入ったんですが、さぎぬまサッカークラブ出身のサッカー関係者は多いですね。後輩だと権田修一選手や田中碧選手、先輩で言うと菅澤大我さんがいます。

小学校では3年生のときに秋のセレクションを受けて読売サッカークラブに入りました。僕のときは300人受けて合格生が1、2人でしたね。入れたのはたまたまです(笑)。

そのころ読売クラブのトップチームは与那城ジョージ監督で、ラモス瑠偉さん、途中からカズ(三浦知良)さんが来て、ほかには小見幸隆さん、川勝良一さん、岸野靖之さんがいらっしゃいました。女子は竹本一彦さんが指導していて、高倉麻子さんがいて。古き良き時代です。

僕の3学年上が初めて全日本少年サッカー大会(現・JFA 全日本U-12サッカー選手権大会)で優勝した代で、3年生で入ったときの6年生は一番インパクトがありました。それから高校生で有名だったのは藤吉信次さん、山口貴之さん、今はU-19日本代表監督の冨樫剛一さんですね。憧れの先輩でした。

Jリーグができる前でしたからクラブハウスはよみうりランドのプレハブで、先輩や後輩もあまり関係なく、高校生と一緒にみんなでよみうりランドの駅からクラブハウスまで歩いてたのを覚えてます。

その当時の読売クラブは年に2回ぐらいセレクションがあって、少しずつ選手が増えていく感じでした。小学校3年生で僕が入ったとき、同じ学年の5番目で、すると5人しかいないんですよ。

それだと試合なんかできないじゃないですか。だから上の学年に入らざるを得ないみたいな状況だったんです。3年生でも6年生と試合をするし、学年ごとの練習というより常に上の学年に混ざってやってました。4、5年生になると少しずつ増えて、6年生で15、16人という感じです。

それから、小学校3、4年生ぐらいが練習してても、よくトップチームのコーチがいきなりやって来てミニゲームに混ざってプレーしたり、勝ったらトップチームの練習着やカズさんのユニフォームがもらえたりしてました。

練習はミニゲームばっかりでしたね。自分の記憶だとセンタリングシュートなんかよりは、いわゆる「鳥かご」とミニゲームぐらいしかやってなかったと思います。ベンチをゴールにして3対3とか。真似て覚えていくみたいな、ストリートサッカーにポンと入れられたみたいな感じですね。

それでたまたま全日本少年フットサル大会(現・バーモント全日本少年フットサル大会)の第1回に出て優勝してるんですよ。早く入ったのもあって5年生ぐらいまでは順調だったんです。

1993年、中学2年の時にJリーグが始まって、読売クラブはヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)になりました。「このままヴェルディでいけばプロ」というのはちょっと頭にありました。みんながプロを目指す集団でしたし。何よりプロリーグができてガラッと環境が変わって、ラモスさん、カズさん、北澤豪さんとかすごかったし、練習も身近に見られて、憧れていました。

ただ僕は全然背が伸びなくて。小さかったんですよ。小学校を卒業するときの身長は136センチだったんですよね。ところが5年生、6年生のセレクションで入って来る選手たちは背が大きくて、僕は5、6年生になると試合に出られなくなったんです。

それでも読売クラブはトップのコーチまで含めていろんなコーチが常に見てくれてました。「技術もあるし、背は伸びるから、腐らずにやれば大きくなったときにまたチャンスが来るから」という声をかけて励ましてもらってたんです。

けれどやっぱり中学2年ぐらいまでなかなか試合に出られない時期が続きました。それが我慢できずに中学3年でヴェルディを辞めたんです。

今、当時の自分を振り返ると、プロになりたかったらもっと努力するべきだったと思います。それに見合った努力をしていなかった気がしますね。ほぼ全員がプロを目指す集団の中にいたんですから。

その当時は多分明確にどういう努力をしなければいけないか分かっていなかったと思います。そしていろんな選手たちを見ていると、やっぱりしっかりと最後まで努力を続けた人はプロのステージに行けるんだろうと感じますね。

それで、高校では全国高校サッカー選手権を目標にしました。進学先はヴェルディの同級生がその高校に行くからみたいな話で決めたんですよ。入ってみると「ザ・高校サッカー」でした。上下関係が厳しかったですね。

僕は読売クラブの、あまりにも上下関係がない中で小学3年から中学3年まで育ってたんで、よく言われる学年の階層みたいなのは理解できなくて、そこが最大のギャップでしたね。僕が行った高校は他にも横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)や湘南ベルマーレから来た選手、もちろん中体連から入ってくる選手もいて、ちょうど過渡期でした。僕やJクラブの下部組織から来た選手はよく先輩たちからガツンとやられてましたね。

そんな上下関係に加えてサッカーのスタイルも大きく違ってました。ボールを使うよりもガンガン走る練習が中心の、根性前面のサッカーだったんです。とはいえ鍛えられたという側面も当然ありました。最初面食らったところがありましたけど、絶対全国大会に行ってやろうという気持ちもあったので、3年間かけて慣れました。最後はその状況を楽しみながら、みんなで一生懸命やったという時間を作れたと思います。

ただ高校を卒業してからは、ヴェルディ時代の同級生の活躍に感じるところがありましたね。ヴェルディの同級生がJリーグに入ってテレビに出たり雑誌に載ってると、うらやましかったり「小さいときは自分がうまかったのにな」とか、そんな感情も湧いて。

実は高校を卒業するとき、川崎フロンターレの練習に参加したんです。当時のフロンターレはJ2で、練習場も麻生区じゃなくて多摩川グラウンドでしたね。張り切って行ったんですけど、チームは監督が辞めて、次の監督がまだ決まっていないときでした。あまりいいタイミングではなかったし、取ってもらえませんでした。

フロンターレに入りたいという気持ちはあったんですけどダメで、それで一浪してその間にフットサルを始めたんです。でも大学に行ったときはまたサッカーをやろうと思ってたんですよ。

ところが大学でサッカー部に入ろうと思ったら、高校の推薦状を持ってこないとダメだ、一般の子は入れないみたいに言われたんです。言ったほうはそう思ってなかったのかもしれないんですけど、自分としてはとても冷たくあしらわれた感じがして、サッカーはそこで辞めようと決めました。

それでフットサルをすることになったんですけど、当時Fリーグはなかったですし、日本ではフットサルがまだメジャーではなかったですね。フットサルを本格的にやってるチームは関東で10チームもないぐらいでした。JFAの大会も全日本フットサル選手権しかなくて、地域リーグもなかった時代です。

そもそも試合をやる場所があまりないんですよ。大会と言ってもレベルのバラバラな32チームがトーナメント戦を1日でやる形式が多かったですね。そういう大会に出ると、1回戦は初心者のチームと対戦して、勝ち上がって上のほうに行って初めてフットサルチームとの試合になってました。

よく元Jリーガーも遊びで出てました。すると試合中、喧嘩みたいな感じになったりしたこともありました。「お前たちはプロになったことないだろう」みたいなものを前面に出してくるし、僕たちもフットサルでは負けないという、ちょっと尖った気持ちもありましたから。1990年代後半から2000年代の初頭ぐらいまではそんな時代でしたね。僕たちのマインドには反骨心と、ちょっと妬みもあった時代でした。

ただそのときの僕たちのフットサルはまだ全然成熟してませんでした。プロ意識があったわけでもなかったし、そもそもプロリーグがなかったので。サークルの延長でちょっとうまくて、ちょっと人よりも真剣にやってるから、ゲームとしては差が出るけども、別に意識が高かったわけではないんです。「フットサルに人生をかける」とはなかなか考えづらい世の中だったですし、胸を張って「フットサル選手です」と言えるような時代ではなかったですね。

けれど、当時の僕は先輩たちが道を切り開いていく姿を見てました。日本にはフットサルのプロがなかったので、ブラジルやイタリアに行ってプロになった代表の先輩を見て、「自分も後に続きたい」と影響を受けていました。その先輩たちが、「他の競技からちゃんとリスペクトされるように自分たちも変わっていかなければいけない」と言うので、振る舞いをプロフェッショナルにしようという選手がどんどん出てきたのを覚えてます。

2001年、フットサル日本代表の監督が木村和司さんで、鈴木正治さんのように元Jリーグの選手を半分ぐらい呼んでAFCフットサル選手権に行ったんです。正治さんは両ヒザの手術をしていたし、フットサル経験がなかったのに対して、僕は若くて日頃からプレーしていたので練習では自信がありました。

でも代表ユニフォームを着て初めて大会に出たら、僕は精神的に未熟で普段できていることができなかったんです。その一方で正治さんはフットサルの戦術を知らなかったのかもしれないけれど、代表選手としてちゃんと戦えていた。そういうのを目の当たりにして、価値観が変わったんです。

それまではフットサルはオレたちのほうがうまいだとか、反発心を含めた感情があったんですけど、フットサルはプレーできないと思っていた元Jリーガーたちがピッチでしっかり戦っているのを目の当たりにして、これはまずいというか。僕が本格的に変わったのはそのときですね。サッカー選手に認めてもらいたいと思い始めたという感じです。

 

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