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すごい世界に来てしまった……プロ広報・岩元里奈が語るサッカー国際大会の舞台裏【サッカー、ときどきごはん】

 

サッカーの大きな国際大会では
殺気立っているメディアセンターで
にこやかにトラブル対応をしている
日本人スタッフの姿がある

日本人として唯一人の広報業務のプロとして
世界中の報道陣を相手に渡り合う
岩元里奈はなぜその場に立てるのか
その半生とオススメの店を聞いた

 

■京都サンガ社長室に突撃し入社直訴

私は1990年代に京都で大学生活を送っていました。叔母から「大学時代に覚えたほうがいいよ」って言われて所属したゴルフサークルで、あるとき先輩が「明日、サッカーのバイトがあるから早く帰んないといけない」みたいな話をしていたんです。

先輩がしていた「サッカーのバイト」っていうのがすごく新鮮で。そんなものが世の中にあるのかと思ったんですよ。普通の飲食や塾の先生というアルバイトは私もしてたんですけど、想像できない仕事だったんで、先輩に「次に何かあったら声をかけてください」とお願いしたんです。そうしたら「女の子5人ぐらい連れて来られる?」って本当に連絡が来たんですよ。

その仕事が、万博記念公園に行って、1万円ぐらいの大きなガンバボーイのぬいぐるみを売ったりしましたね。それが当時はめちゃ売れたんですよ。あの時代ですよね。それでイベント会社に登録させてもらって、ガンバ以外に京都にも行くようになりました。

京都での最初の仕事は、当時JFLに所属していた京都パープルサンガ(現・京都サンガ)のVIP受付でした。制服を着て来場する人たちの受付をやって、「こんにちは」と言う仕事で、それ自体も楽しかったんですけど、試合の勝敗でいろいろ雰囲気が変わってくるというのも面白くて。

しばらくするとイベント会社の社長から「ガンバ大阪関連のアルバイトはたくさんいるから京都に行ってくれ」と言われて京都にばかり行くようになったんです。京都では「もぎり」もウグイス嬢もやりましたね。

京都に通っているうちに、クラブの人から「事務所のアルバイトに来ないか」と言われて、イベント会社を辞めてクラブ直雇用のアルバイトになったんです。クラブの事務所に行くと、普通の会社のように人事、総務、営業という部署があって、モノを作るんじゃなくて、チームのために仕事をして、そしてチームが勝ったり負けたりすると雰囲気まで変わるのが「なんて面白いんだろう」と思ってました。

それでサッカーにのめり込んじゃったんです。「もう少しサッカーを勉強したいです」とクラブの人に言ったら「記録をつけられるようになれ」と教えてもらい、主に日曜日のサテライトの試合で土曜日のリーグ戦で記録を担当している人に聞きながら記録のつけ方を勉強しました。

でも、それまではサッカーと縁がなくて基本的なことを何も知らなかったんですよ。だから最初に「記録をつけるノートを『加茂』で買ってこい」と言われたとき、その「加茂」がサッカーショップだとは分からなかったという(笑)。そこから勉強しました。

1995年、大学4年生になって就職を考えたとき、自分としてはクラブに入って働きたいと思ってました。でも親に言ったら「そんな訳のわからない仕事を!」と大反対で、一応親との約束で公務員試験を受けたんです。ただ全然勉強してなかったから受かるわけもなくて、「もしクラブに入れなかったら荷物をまとめて実家に帰ろう」と決めました。

それで京都の社長室に突撃して、「私をクラブに入れてください」って直談判しに行ったんです。社長からは「今はJFLで、Jリーグに上がれるかどうか分からない。上がれば人を何人か採用するけど、Jリーグに上がれなかったら会社がどうなるか分からない。ただ、あなたの気持ちはわかったから」と言われましたね。

私は「やりたいことを見つけられたから、もし可能性があれば覚えておいてください」とアピールだけしておきました。そうしたらありがたいことにその年にJリーグに昇格することになったんです。

当時の専務に呼ばれて「あなたの意思確認をしたい。本当に入社したいですか」と聞かれ、「入りたいのならSPI(適性検査)を受けてください」と指示を受けました。検査で一緒だったのが、家本政明元主審と、今サンフレッチェ広島の足立修さんでしたね。実は、私たちは同期なんです。

1996年は大学卒業前にJリーグが開幕して、3月末まではアルバイトという身分で、4月からは社員として仕事をしていました。それまで私はずっと運営と営業のアルバイトだったのでチケットを数えたりしてたんですけど、内定をいただいて以降、広報担当になったんです。

最初にやった仕事はチームが沖縄キャンプに行っている間、会社にいてひたすら取材の電話を受け、ファクスがジャンジャン来るのでまとめ、毎朝新聞記事をクリッピングして宿舎に送るという、広報の基礎の基礎からでしたね。

 

■神戸で巡り合った国際大会のチャンス

1999年にカズ(三浦知良)さんが京都に入ったんですけど2000年で契約満了になり、ヴィッセル神戸に行くことになりました。そのときこれでお別れだと思ってロッカーで一緒に写真を撮ってもらいました。

そうしたら当時の神戸の広報体制が1人だったらしく、カズさんが来て報道陣がどっと増え、人が足りないからということで神戸からお誘いの電話があったんです。私は京都に大学時代からの恩義があったので最初はお断わりしたんです。でも、何度も誘っていただいて、その何度目かで神戸の社長も出て来られて色々な話をする中で、神戸がワールドカップの開催都市で、私にも大会に参加するチャンスがあることを話してくれました。

京都を離れるのは寂しかったんですよ。でも、私、1998年フランスワールドカップを見に行って「ワールドカップの仕事をしたい」と思っていたんです。京都では無理だと思っていたけれど、2002年日韓ワールドカップの会場に選ばれている神戸ではチャンスがあるかもしれない。一気に気持ちが動き、最後は神戸の社長が京都の社長にも直接話をしてくれて、結果、神戸に「移籍」することになりました。

それでワールドカップのときに神戸のメディアセンターでベニューメディアマネジャーのアシスタントをやったんです。各会場にはFIFAから派遣されてきた外国籍の人たちが大勢いて、私たち組織委員会側のメンバーと一緒に仕事をするのですが、最初はみんなFIFAの本部があるスイスからやって来た人たちだと思ってたんですよ。でも実はかなりの人がフリーランスのその道のプロで、大会のために集められていたんです。

競技運営、メディア、セキュリティなど各分野の専門家が集められてチームを組んで、その会場の責任を一切背負うというのが分かったときは衝撃でしたね。そんな人たちが世の中にいるんだと思って。しかも私たち直接のカウンターパート(担当者)である「メディアオフィサー」はメディアのことを本当によく知ってるんです。

 

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