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使ってくれない監督が悪いと思っていた……加部未蘭はなぜ2年でJリーグを去ったのか【サッカー、ときどきごはん】

 

書き手として国内外のサッカーを深く知る父の元に生まれ
体格にも恵まれた
中学生のころから評判になっていた

高校で全国優勝したときは
美談なのか虐待なのか
様々な議論の中心にもなった

そんな選手がなぜサッカーを離れたのか
そして何を思ったのか
加部未蘭にその道のりとオススメの店を聞いた

 

■賛否両論だった高校選手権とプロ入りの経緯

父が父(スポーツライター加部究氏)なんで「未蘭(ミラン)」っていう名前なんですよ。キラキラネームの走りですよね。大きくなるまでは名前でイジられて気にしたりもしてたんです。でも大きくなってからは、サッカーをやる上ではミランっていう名前がとても有利に働くことが多かったですね。今はめちゃくちゃ気に入ってます。

親がサッカー関係の仕事をやってるしミランという名前だし、サッカーするように仕向けられてたんですけど、反発とかなかったですね。「サッカーやりたくない」「チーム辞めちゃいたい」と思ったことは何回かありましたけど、基本的に自分はやっぱりサッカーするのが好きでやってたんで。

覚えてるのはまだ物心つく前から、旅行先のホテルでボール蹴ってるみたいなことですね。旅行先のホテルのベッドでオーバーヘッドしてるみたいな。本格的に始めたのは幼稚園小学校ぐらいからでした。

小学校の高学年になって地域選抜に入りだして、中学校でFC東京のジュニアユースに入ったんです。そこからやっとプロへの道がゼロではない、目指せるって意識しだしました。

チームメイトやスタッフの方たちにいろいろ支えられてサッカーをしてたと思います。もちろん父にもいろいろ言われました。今思えばすごいありがたいアドバイスだったと思うんですけど、当時の僕はそんなの聞かずにめちゃくちゃやってました。

親からプレーについて指摘されるのってイヤなんですよ。しかも誰よりもサッカーに詳しいんで。中学では反抗期で、もうめちゃくちゃ反抗してましたし、いろいろやんちゃしてましたね。髪染めたりとか。チームのコーチには注意されてました。ただ、父も自由な生き方をしてるから何も言わないんです。それでもやっぱり「親にサッカーさせていただいてる」とは思ってました。

FC東京ジュニアユースではみんな、もうある程度プロになるのを意識するんです。どういうことをやればプロになれるかって。でも僕はそんなのあまり思ってなくて、中学校のころも本当に好き勝手やってて、ボール持ったらどっからでもずっとドリブルして攻めるみたいなタイプだったんです。

高校ぐらいまで何にも考えてなかったですね。ただサッカーを楽しんでるだけみたいな感じで。自分がボール持って攻撃してるときは楽しいけど、それ以外は何も分かってないし、何もしない。

それでもたまに点取ったりしてたから試合に使ってもらったりしてたと思うんですよね。身体能力に恵まれて、身長も高くて足も速くて、ただ真っ直ぐドリブルすればほとんど抜ける。そしてゴールを取ってたから周りからの期待が大きいのは中学から感じてました。

だけど、FC東京のユースには行かずに高校サッカーに行ったんですよ。それには父の影響も一定程度はありまして。

父は高校サッカーのよさも分かっていたんで、そっちを勧めてきたんです。ただ本当はすごいやんちゃだったんで、寮生活させて更生させようっていう感じだったんじゃないかと思います。

それでいろいろ選択肢もあった中でFC東京ジュニアユースの先輩も何人か行ってたり、同期も結構行くという話を聞いた山梨学院大学附属高校を選ばせてもらったんです。

学校がサッカー部を強化し始めて僕で3学年目でしたね。クラブ育ちだったんで、高体連の「部活」では、すごくギャップを感じました。とにかく走る練習が多かったし、「ご指導」もありましたし、先輩後輩も厳しくて「説教」なんかもありましたし。

でも、試合をやれば強かったし、練習試合もほとんど勝ってましたし、どれも大勝してました。そうなると楽しいんです。

山梨県内だけじゃなくて、他の地域、静岡の強豪校とやっても勝つし、1学年上の選手が出る大会でもほとんど勝つみたいな。仲間にも恵まれてるって感じてました。

それで高校2年生の時に全国高校サッカー選手権大会に初出場で初優勝したんです。僕は右足の甲を疲労骨折していたんですけど、試合には途中出場していました。

僕が試合に出たことについて賛否両論あったと記憶してます。でも、あれは僕が志願して出していただいたんですよ。周りの方にいろいろ議論していただいてすごいうれしかったし、それで僕のことを取り上げていただくのもすごくありがたかったんですけど、僕は自分の選択を後悔してないんです。

「使ってくれ」って無理を言ったのも僕ですし、横森巧監督はそれに応えて使ってくれて、優勝に導いてくれたんで。今振り返ってもそこはもう全然後悔ないです。チームメイトも、そんな状態の僕が出たらハンデになるかもしれないのに受け入れてくれたし、先輩方も助けてくれたし、本当にありがたかったですね。

そしてあの優勝という舞台に立てたっていうのが本当によかったと今でも思います。その後半年ぐらいサッカーできなかったし、もしかしたらその後足に何か影響が残ったかもしれないんですけど、後悔は全然ないです。あ、でもその後6カ月サッカーできないって先に知ってたらどうだったかな(笑)。

優勝して名前を知ってもらえて、あのころ流行ってたSNSってmixiだったんですけど、当時1日3000件ぐらい友だちリクエストが来るみたいな感じでした。今はもっとSNSが盛んだからもっといくんでしょうね。僕は寮生活してて、学校にも行かなきゃいけなくてっていう環境があったから、生活が大崩れしなかったと思います。

高校3年になったとき、今、アルビレックス新潟シンガポールの監督をしている吉永一明監督が就任したんです。吉永監督は僕をすごく厳しく指導してくださったんですよ。今思い返しても愛のある指導だったと思いますね。やっぱり天狗になってたんで厳しくしてもらったと思います。

高校3年生のときも全国選手権に出ました。プロを意識してましたけど、ただ高校3年生のときは、骨折で半年プレーしてなくて、復帰してすぐに肉離れしてたんです。全力でプレーできたのは3、4カ月ぐらいだったんですよ。

高校3年の時に何か実績を残せたかっていうと、インターハイでも何もしてないですし、選手権でちょっと活躍したぐらいで。トップクラスで高校生からプロに行く選手はもっと活躍しないとだめで、そういうのは自分でも理解してました。

当時もう代理人の方が付いてくださってました。代理人がいたのはやっぱり父の影響ですね。代理人の方からは選手権が始まるまではオファーないぞ、って言われてましたし、大会に集中できるような環境を整えてくださったってました。

それで大会が終わった後に「ヴァンフォーレ甲府からオファーがありました」って教えてもらったんです。最終オファーに至ったのは甲府だけだったんだと思います。でも1つでも来たので、すごいうれしかったし、ありがたかったと思ってます。

ただ、プロになるかどうかはすごい迷いました。調子乗ってた部分もあったと思うんですけど、福岡大学がオファーをくれて1番最後まで待っていてくれたんです。

そのとき高校のチームメイトから、「プロになってる姿、プロになって活躍する姿を見たい」って言われたんです。その言葉に後押ししてもらったのが最後の決め手になってプロになることにしました。

 

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