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10番・久保竜彦の物語〜君は、久保を、見たか Part.1

 

2000年創刊当時、紫熊倶楽部の主役はまぎれもなく久保竜彦だった。2002年春の増刊号では、16ページにわたる久保のノンフィクションを掲載している

高木琢也(現長崎監督)・久保竜彦・佐藤寿人(現名古屋)。言うまでもなく、サンフレッチェ広島史上に残る3大エースである。もちろん、得点数という実績であれば、J1通算得点記録2位、J2を合わせればダントツ1位の数字を残している寿人がベストだ。だが、だからといって、高木や久保が寿人にサッカー選手として「劣っている」というわけではない。

それぞれ、スタイルが違う。寿人は純然たるストライカーでありペナルティエリアが仕事場だ。彼はまさに「点取り屋」であり、純粋にその仕事に特化したタイプのFWであることは説明不要だろう。

一方、高木はどうかといえば、彼は「ポストプレーヤー」という役割の重要性を世間に知らしめた先駆者だったと言っていい。もちろんポストプレーヤーそのものは、彼の出現以前にも存在した。ただ、最先端でボールをおさめ、相手のプレッシャーを跳ね返しながら味方にしっかりとボールをつないで攻撃の起点となるこの役割は、高木の出現以前はそれほど重要視されていなかった。だからこそ、ハンス・オフト元日本代表監督が彼を中心に攻撃陣を組み立てた時、指揮官と高木は多くの批判にさらされたのである。たとえばアジアカップでは「点をとっていない」という理由で。

この大会、高木は決勝(サウジアラビア戦)でゴールを決めているが、それ以前の試合でもポストプレーは安定していた。だが、彼のポストワークの質の高さが本当の意味で評価されるのは、サンフレッチェ広島でのステージ優勝(1994年ファーストステージ)にゴールを量産することで貢献した時。得点を決めているが故に、彼の役割である「ポストワーク」にもスポットが当たったと言える。日本のサッカー文化がまだ幼かったといえば、それまで。しかし、そのことによって彼の歴史的な評価が実態よりも高まっていないとすれば、非常に残念だ。

そしてもう1人の男が、広島の歴史には存在する。それが久保竜彦だ。広島の歴史の上で、もっとも「10番」が似合っていた男である。

10番といえば、日本では中村俊輔(現磐田)のようなパッサータイプをイメージしがちである。点をとるというよりも、その一歩か二歩前の段階で決定的な仕事をする。広島では高萩洋次郎(現FC東京)や柏木陽介(現浦和)も、そんなスタイルである。

だが、サッカーにおいて10番の伝説をつくった男は、たとえばペレ(ブラジル)だ。たとえばジーコ(ブラジル)。さらにミッシェル・プラティニ(フランス)であり、ロベルト・バッジョ(イタリア)、そしてなんと言ってもディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン)だろう。

彼らのスタイルは、果たしてどうだったか。パスも出せる。ドリブルもいける。そしてゴールも決めることができる。今でいうセカンドストライカ一であり、ピッチの司令官であり、アイディア豊富なチャンスメイカーでもあった。少なくとも攻撃面で万能だったからこそ、彼らは時代をつくることができたのである。

広島にそういう「10番」はいたのか。いた。たった1人だけ。それが、久保竜彦である。

久保という選手を思い浮かべる時、多くの人が「点取り屋」だと認識しているだろう。それは横浜FM時代や日本代表でのプレーが印象的だったからだが、本質はそこではない。久保はストライカーではないと言い切ってもいい。

では、どういうプレーヤーだったのか。バッジョのようなテクニシャンとは色合いは違うが、最後の場面における「アイディア」「創造性」という部分では間違いなく圧倒的である。ハーフウエイラインからのロングクロスに対して走り込み、得意ではないはずの右足でジャンピングボレーを突き刺すなんて発想は、普通の選手にはない。

シュートの印象があまりに強烈すぎるから見落とされがちだが、彼はスピードも豊富だ。2000年前後の広島では間違いなく、トップクラスのスピードを誇っていた。「タツさんが本気で走れば誰も敵わない」とは森崎浩司がかつて語った言葉である。ただ単純に速いだけでなくドリブルもある。深い切り返しで相手を置き去りにするシーンは、当時の広島では日常だ。

さらに意外だろうが、彼はスルーパスも持っている。2001年6月20日、大木勉が契約延長を勝ち取った対FC東京戦(ナビスコカップ)でのVゴールは、久保のていねいで優しいパスから生まれた。親友・大木の苦境を助けたいという想いもあったが、何よりも彼が「パスを持っていた」から出せたプレー。どんな状況にあってもシュートを打つように思われるが、周りを使うことも彼は上手い。

まるでアフリカ人のようにしなやかにしなる肉体を持ち、形に囚われないアイディアを表現する。速くて、強くて、豪快で、柔らかくて、何よりも「次に何をするのか」わからない。そんな選手は、少なくともJリーグ発足以降は見たことがない。過去にも、そして今も。左足の豪快さでいえば田中順也(神戸)だろうし、圧倒的な迫力を見せる鈴木優磨(鹿島)という素材もいる。だが、創造性やプレースタイルの幅を見ても、まだまだ久保竜彦の域にまでは到達していない。今も昔も、久保竜彦は全くのオンリーワンだ。

ジーコは日本代表監督時代、久保を重用した。ドイツワールドカップの年(2006年)、彼はブラジルのメディアに「日本を侮るな。久保という選手を見れば、君たちは驚くよ」と語っている。それほど、この野性味に溢れた自然児に、1980年代を代表するファンタジスタは惚れ込んでいた。しかし、慢性的な腰痛はヘルニアと背骨に入ったヒビの影響により、痛みが酷い時には日常生活すら満足に送れないような状況に陥っていた「エース」を、ワールドカップに連れていくことはできない。ワールドカップの重要性を誰よりもわかっているのは、1982年に「黄金の4人」と称賛されたジーコその人なのだから。

それでも、僕たちは夢を見る。

もし、久保竜彦が万全の状態でワールドカップに出場していたなら、どうなっていたか。

結果はわからないが、少なくともドイツワールドカップでの日本は1分2敗2得点という惨めな結果には終わらなかったはずだ。中村俊輔や小野伸二(札幌)、小笠原満男(鹿島)といった稀代のパッサーたちとのコンビネーションから、信じがたいシュートをいくつも放ったはずである。広島でプレーしていた時、外れたシュートに拍手が起きたという伝説を持つ久保だったら、世界を「あっ」と言わせてくれたに違いない。

本当にそうなったかどうかは想像するしかないが、少なくともそういう「もしかしたら」と思わせてくれる強烈な才能の塊だった。

今、もし広島に21歳頃の彼がいたら、果たしてどうなっているだろう。身体が万全の久保であれば、ブロックをつくられても関係ない。日本代表のアイスランド戦で屈強な欧州のDFに2枚挟み込まれても、そこをこじ開けてゴールを叩き込んだ男である。ジャンプした楢崎正剛が伸ばした手の上からヘディングを叩いたことのある男だ。引いて守ってこられても関係ない。フェリペ・シウバや柴崎晃誠、青山敏弘やミキッチ、柏好文がいたら、いったい何点とれるか見当もつかない。

これほどの才能と朴訥で義理人情に厚い人間性を共有させていた「ラストサムライ」と時間を共有して過ごせたことは、筆者にとって掛け替えのない財産だ。サッカーの奥深さがわかればわかるほど魅了されるのが森崎和幸だとしたら、サッカーのことは何もわからなくても「ただただ、凄い」と感嘆してしまうのが、久保竜彦なのである。新規のサポーターを集めるのに、久保のプレーほど強烈なインパクトはない。

サンフレッチェ広島は今季、創設25周年を迎える。その記念すべき年に、広島の伝説的な存在を語っていこうと思う。まずは久保竜彦のことをしばらく、語っていきたい。


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