「スタンド・バイ・グリーン」海江田哲朗

【この人を見よ!】vol.13 蹴れば都 ~MF32 二川孝広~(2016/10/12)

まさか、Jリーグで青と黒のシャツ以外の二川孝広が見られるとは思わなかった。
今年6月28日、ガンバ大阪から東京ヴェルディへの期限付き移籍が発表され、二川は緑のシャツに袖を通す。プロ18年目、新天地を求め、愛着の深いクラブを離れた。
加入即、攻撃陣の中軸を担うことになった二川はパッサーとしての異能を発揮。10月8日、J2第35節のギラヴァンツ北九州戦では、ついに移籍後初ゴールを挙げている。

■ガンバの至宝

二川孝広はガンバ大阪のアカデミーで育ち、1999年のトップ昇格後、リーグ、ナビスコ杯、天皇杯、ACLなど、数々のタイトルを獲得。2003年から14年もの長きにわたり、ガンバの10番は二川のためにあった。選手の海外移籍が活発になった現代では、このような例はごくわずかしか見られない。レベルの高い選手ほど、若いうちにさらなる高みを目指して広い世界に飛び出す。その点、おそらく二川は不世出の10番としてG大阪のクラブ史に名を刻むことになるだろう。

3年前の秋、『フットボールサミット』という雑誌の取材で、僕は二川にインタビューする機会に恵まれた。当時、バリバリ試合に出ていたとはいえ、33歳。選手としてのスタートを春とすれば、盛夏は過ぎ、秋の季節へと移り変わろうとしている時期だ。G大阪一筋にそのキャリアを終えるつもりなのか、訊ねた。

「いままで移籍したいと思ったのは一度だけ。試合でなかなか使ってもらえなかったプロ1年目のときでした。ガンバには感謝していますし、ずっとここでプレーしたい気持ちはありますけど、試合に出られなくなるとそういう気持ちが揺らぐかも。やっているのが一番楽しい。最後までガンバで、とは約束できないですね」

二川はこう言い、僕はどの程度本気なのか真意を測りかねた。

G大阪で盤石の地位を確立し、ここにいればセカンドキャリアも安泰だ。もし粗末な扱いをしようものなら、選手やサポーターが黙っていない。性格的には人見知りときており、新規開拓はそれなりに負担だろう。とすれば、実行に移される可能性は低いのではないかと考えた。まして、数年後、僕にとって身近な東京ヴェルディの一員になっているとは想像すらしていない。

ところが、どうだ。二川はそれらをなげうって、プレーする喜びを求めた。

二川を輩出したG大阪のアカデミーと東京Vのアカデミー。両者は成り立ちからシステムまですべてが異なるが、ふたりの人物によって線で結ばれる。ひとり目の名を、上野山信行(G大阪アカデミー本部・強化本部担当顧問)。数々の日本代表選手を輩出した、G大阪のアカデミーの礎をつくった人物だ。

1992年、上野山は松下FC(のちのG大阪ユース)を率い、全日本クラブユースサッカー選手権大会に臨んだ。立ち上げたばかりで1年生だけのチームながら松下FCは勝ち進み、決勝で大会4連覇中の読売ユース(のちの東京Vユース)と対戦。0‐1で敗れた。

以下、拙著『異端者たちのセンターサークル』(白夜書房)から上野山のコメントを引用する。

「この年代でこんな選手がいてるんだと思いました。巧いし、汚い。ゴールを中心にプレーの判断があった。点差が開いたら、相手を焦らすようにじっくりボールを回していく。大人のサッカーをしていた」

「参考にしたのはピッチのなか全部です。育成年代の大会で見るたびに、技術、戦術、サッカーの中身をつぶさに研究した。盗めるものは盗めと。一方、ピッチ外は見習わなかった。中学生の選手がつばを吐く。審判に文句を言う。これではあかん。社会に出ていく子を育てているのにきちんと指導できていない。ヴェルディはここで止まるなと思った。確かに巧い。でもそこに慢心している。反省がない。謙虚さがない」

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