宇都宮徹壱ウェブマガジン

【無料】あらめて、パリのテロ事件について  旅の途中で個人的に考えたこと


(C)Tete_Utsunomiya

 シンガポールとカンボジアでのワールドカップ・アジア2次予選の取材を終えて、今は高知で行われている地域決勝の決勝ラウンドを取材している。10月初旬からずっと続いていた旅芸人のような生活も、ここを乗り切ればようやく一段落。今回の地域決勝については、次号の徹マガでフォトレポートを掲載するので、楽しみにお待ちいただきたい。

さて、12月13日にパリで発生した同時多発テロから1週間が経過した。徹マガでは事件直後に澤山大輔が編集長コラムで、そして今号では千田善さんが連載で、それぞれの視点で今回のテロを取り上げている。前者はメディアに期待しなくなったわが国の現状について、後者はスタジアムがテロの攻撃対象となった背景について、それぞれ興味深い指摘がなされていた。私もこの1週間、個人的に考えていたことを記すことにしたい。

私がテロ発生を知ったのは、プノンペンに到着して翌日の朝であった。6時に起床してPCを開いたら異変を知らせる友人からのDMを受け取り、慌ててTwitterを確認する。まだツイートの数は断片的だったが、そのシリアスな内容に胸騒ぎを覚え、今度はホテルのTVをザッピングした。

幸い、私が投宿していたホテルは、CNNもBBCもフランス2(ドゥ)も、そしてNHKも入る。欧米のメディアは、いずれも事件が起こった現場の中継映像をぶっ通しで流しながら、刻一刻と変化する情報を逐一伝え続けていた。念のためNHKも確認したら、『サキどり』は通常どおりの内容。画面隅に小窓を作って現地の映像を見せている様子もない。もしもこの日、東京の自宅にいたなら、私はかなりのストレスを感じていたことだろう。

その後、いったんホテルを出て、私はカンボジア日本人材開発センターに向かった。大学の先輩でもあるアーティストの日比野克彦さんが主催するマッチフラッグのワークショップを取材するためである。そこで日比野さんはじめ、何人かの日本人と話をしたのだが、意外と事件そのものを知らない人が少なくなかった。理由のひとつに、地元メディアがあまり積極的に報じていなかったことが考えられる。

かつての宗主国が未曾有のテロ攻撃を受けたのだから、本来ならばカンボジアでも大々的に報じられていると考えるのが自然だろう。ところが意外にも、かの国のメディアはこの事件に関しては「どこか遠くの国での出来事」という空気感が支配的だった(事件に強い関心のある人は、それこそCNNなどの欧米系の報道を視聴していたのだろう)。

今回のテロ事件に関して、報道の温度差とともに気になったのが、試合前の黙祷についてである。アジア2次予選に関しては、AFCから各試合会場に試合前の黙祷を行うよう通達が出されており、プノンペンでの試合でも履行された。このことについて違和感を表明したのが、シンガポールとのアウエー戦に臨んだシリア代表のファイル・イブラヒム監督。彼は試合後の会見で「われわれはフランス人のために30秒間立ち上がっているが、シリアで殺された人たちのためには誰も1秒も立ち上がらない」と述べている。(参照)

日本では、Facebookのプロフィール写真をフランス国旗のトリコロール色にすることの是非がネット上で盛んに論じられていた。シリア代表を率いる監督の言葉には、次元を超えた重みが感じられる(余談ながら、対戦相手のシンガポール代表のベルント・シュタンゲ監督も、かつてイラク代表を率いた経験があるだけに、これに近い想いを抱いていたかもしれない)。パリでのテロ事件の被害者に対して、黙祷を捧げることを否定するつもりは毛頭ない。ただ、同じアジアの仲間たちが空爆で苦しんでいるという事実(当然ながら空爆で殺されているのはIS構成員だけではない)に、AFCはもう少し想像を巡らせるべきではなかったか。

あれから1週間が経過し、この3連休は各地のスタジアムがレギュラーシーズン最終節で大いに盛り上がった。満員御礼となったサンフレッチェ広島のエディオンスタジアムをはじめ、ダイジェスト映像で各会場の盛況ぶりを見ていると、今さらながらに平和の有り難みを痛感する。しかし一方で、ふと暗い予感が脳裏をよぎった。今回のテロでは、サンドニのスタッド・ドゥ・フランスが攻撃の対象になっていたからだ。

連載コラムで千田さんも指摘したように、過去にサッカーのスタジアムがテロの標的となることはまずなかった。なぜなら、サッカーはイデオロギーや民族や宗教を超える存在であり、またテロ集団にもサッカーファンを少なからず存在していたので、試合中のスタジアムを攻撃することは禁じ手以外の何ものでもなかった。しかし今回の事件によって、かろうじて保たれていたコンセンサスが、ついに通じなくなってしまったのである。実に恐ろしい時代になったものだ。

われわれは近い将来、常にテロの恐怖と隣り合わせでスタジアム観戦しなければならないのだろうか。あるいは、飛行機に乗るときのようなセキュリティチェックを受けないとスタンドに入場できないのだろうか。そこまでいかなくても、愉快犯の心ないネットでの書き込みによって、試合が中断もしくは中止に追い込まれることは起こり得るかもしれない。

この連休は、各地で昇格や降格、あるいはポストシーズン進出をめぐる悲喜こもごものドラマがあった。悲しみに暮れた選手やサポーターも数多くいたことだろう。それでも、平和で安全なスタジアムで喜びや悲しみを露わにできる幸せを、われわれはしっかり噛みしめるべきであろう。なぜなら、この幸せが今後も永遠に続く保証などないことを、われわれはすでに知ってしまったからだ。パリから遠く、大観衆からもほど遠い春野の陸上競技場で、今はそんなことを考えている。

<この稿、了>

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