宇都宮徹壱ウェブマガジン

なぜ2002年は「理念なき大会」となったのか 20年後に明かされる「日韓共催決定」の舞台裏

 「そういえば、あの日からもうすぐ20年だよな」

 とある酒席で、そう語ったのは徹マガでもお馴染みの広瀬一郎さんである。20年前。はて、1996年5月に何かあったのか──おお、そうだ。 2002 FIFAワールドカップの日韓共催が決定したのが、5月31日であった。本当は翌6月1日のFIFA総会で「日本か、韓国か」が決定するはだったのが、なし崩しで前日の5月31日に共催が決定。多くの関係者がTVの前で茫然自失となってから、間もなく20年となる。

 昨年連載した『徹一から徹壱へ』でも言及したが、私がその当時所属していたエンジンネットワークという映像制作会社では、2002年ワールドカップ招致活動ビデオの制作を請け負っており、私も時おり撮影現場に駆り出されることがあった。ゆえに、いちおうは日本の招致活動の末端で働いていたわけで、電通から招致委員会に出向していた広瀬さんとは(立場はまったく異なるものの)同じ現場の空気を吸っていたことになる。それだけに、広瀬さんが発した「もうすぐ20年だよな」という言葉に、あらためて深い感慨を覚えた。

「でもさ、みんな20年前のことをほとんど忘れているんだよね」と寂しそうに語る広瀬さん。なるほど、では『徹マガ』で20年前のことを存分に語りませんか? ということで急きょ、今回の企画が立ち上がった。インタビューの中で語っておられるとおり、広瀬さんは当時、2002年ワールドカップ招致活動のただ中で「日本開催」の可能性をギリギリまで追求していた。それだけに「あの日をもって、僕の人生は激変した」というご当人の言葉も、実にリアリティが感じられる。

 あの日、チューリッヒで何があったのか。そして、あれから20年が経過した今、新たに語られることはあるのか。今回のインタビューでは、2020年の東京五輪・パラリンピックへの言及も合わせて、広瀬さんに大いに語っていただくことにしたい。正直なところ、目からうろこの話が満載。20年前のあの日、大いなる落胆を覚えた方には必読のインタビューである。(取材日:2016年5月16日@東京)

■なぜ日本はレガシーを残せなかったのか?

――今日はよろしくお願いします。20年前のお話を伺う前に、東京五輪の話を伺いたいと思います。つい先日も、招致活動で不正支払い疑惑が海外メディアで報じられて日本に飛び火しています。広瀬さんのところにも、メディアからの出演依頼があったと思いますが。

広瀬 あったね。明日(5月17日)、テレ朝の『ワイドスクランブル』に出る。最近、東京五輪のことについていろいろ話す機会があるけれど、新国立競技場の問題にしても、エンブレムの問題にしても、実は結果論でしかないんだよね。因果関係のっていうのは、共通した構造的なものがあるんじゃないかと僕は思っているわけ。それは何かと言うと「どうしたいか」。コピーライティング定義に言うと「ビジョン」あるいは「理念」なんですよ。たとえば招致活動の時のエンブレムがあったよね。

――花輪のデザインですよね。「いっそ、あれを大会エンブレムにすればいいんじゃないか」という意見もけっこうありましたが。(参照)

広瀬 だけど、それは使わないってことになっていたでしょ。それはなぜかというと、招致の時の理念と、大会を開催する時の理念は変えますよ、ということだから。理念を象徴するのがエンブレムであるわけで、開催が決定してエンブレムを作り直すということは、もう一度「東京五輪の理念」というものを実践的なものにするために精査します、ということだと僕は思うんです。でも、その理念というものが決まらないままデザイナーに作らせてしまうと、変な話になってしまうわけ。それと同様に2002年のワールドカップというのも、実は理念のない大会だったんだよね。

――招致活動の時は「ファースト・イン・アジア」というキャッチフレーズがありましたが、あれは理念ではなかったんですか?

広瀬 それは招致する時の理念。ところが、2002年の開催が決まった瞬間に理念を作り忘れてしまった。それは少し同情すべき点もあって、招致活動の時はA(日本開催)かB(韓国開催)かという2つの結果しか想定していなかった。ところがC(日韓共同開催)という想定外の結果になってしまった。

 あの「ファースト・イン・アジア」というのは、「アジアで初めて」というのと「アジアでナンバーワン」というダブル・ミーニングだったわけだけど、共同開催決まった時に「ファースト・イン・アジア」のままでいくのか、それを捨てて新たな理念を模索すべきか、そういう選択を結果としていなかった。その結果、欧州一極集中という世界のサッカーの構図において、アジアは「育成の場」という地位に甘んじるしかなくなってしまったんだよね。

――あるいは欧州サッカーの「金づる」ですかね。

広瀬 だね。でも、そもそもあの招致活動は、日本にとって非常に画期的なことだったわけ。五輪と違って、ワールドカップというものはJFAと10の開催自治体──当時は16だったんだけど、その17の組織が自主的に手を挙げて、それを国家が追認したと。この流れというのは非常に21世紀的だったよね。

 この流れをどう未来に活かすべきだったか。あるいはワールドカップ開催を契機に「じゃあ、日本だけでなくてアジアのサッカーのことも考えていこうよ」という次のアクションもあったかもしれない。そうした、いろいろなチャンスがあったにもかかわらず、理念がなかったがために2002年は単なるお祭りで終わってしまったわけさ。記憶は残ったけれど、レガシーは何も残らなかったと言っていい。

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