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【限定無料公開のお知らせ】通巻69号 松田直樹との最後の3日間 松本山雅FC代表取締役社長 大月弘士氏インタビュー(徹マガ通巻69号=2011年09月22日配信)

 あの暑い日から、またたく間に5年の歳月が経ってしまった。

 第一報が私のもとに届いたのは2011年8月2日の昼、地域リーグファンの友人からのショートメールであった。慌ててtwitterで確認すると、タイムラインは「松田直樹」の名前でびっしり埋まっている。「練習中に突然倒れた」「救急車で信大病院に運ばれた」「心肺停止の状態らしい」──刻一刻と書き込まれる情報に、まったく仕事が手に付かない状態だった。

 そして2日後の8月4日13時6分、松田直樹さんは帰らぬ人となった。訃報が届いたのは、友人のデザイナーと『松本山雅劇場』のカバーデザインの打ち合わせをしていた時のことだ。大きな喪失感に苛まれながらも、J2昇格を目指していた山雅の今後と、製作中の書籍をどうするかという現実的な問題にも向き合わなければならなかった。その日の東京の空は、今日と同じく晴天で、残酷なまでに日差しが強かったことをよく覚えている。

 今回、徹マガのバックナンバーより、松本山雅FC代表取締役社長だった大月弘士さん(現会長)のインタビューを24時間限定で無料公開する。掲載されたのは、2011年9月22日に配信された通巻69号。大月さんは松田さんの最期を看取ったひとりであり、当時は「なぜAEDがない公園で練習させたのか」といった批判の矢面にも立たされた。ご本人もさぞかし大変な思いをされたはずだが、私の取材に対して言葉を濁すことなく真摯に対応してくだった。

 その後、悲劇が起こった梓川ふるさと公園にはAEDが設置され、山雅も専用練習場(松本市営かりがねサッカー場)を昨年オープンさせた。一方、当時を知る山雅の現役選手は、鐡戸裕史と飯田真輝と白井裕人の3名のみ。時は移ろい、故人を偲ぶのも年に一度のこととなった。そこで、本日(8月4日)正午から明日(8月5日)正午まで、5年前のインタビュー記事を掲載したバックナンバーの無料公開を思い立った。正直、読んでいて辛くなる部分もあるが、天に召された「永遠のサッカー小僧」松田直樹さんに思いを馳せる契機となれば幸いである。

通巻69号 松田直樹との最後の3日間 松本山雅FC代表取締役社長 大月弘士氏インタビュー

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