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「鹿島の奇跡」を秋田でも起こしたい  岩瀬浩介(ブラウブリッツ秋田代表取締役社長)インタビュー<2/2>

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■マッチデープログラムを作りながらの現役生活

――TDKからブラウブリッツ秋田となった2010年は、岩瀬さんにとって現役最後のシーズンでした。でも実際には、クラブのスタッフとして働きながらプレーしていたそうですね?

岩瀬 そうです。その前年から選手兼任で、主に広報業務をやっていました。まずはチームをもっと知っていただくために、試合会場で配布する「マッチデープログラムを作ろう」ということで、私がイラストレーターやフォトショップを使ってデザインしていました。それから商店街に営業するために、名刺なんかも自分で作りましたよ。

――すごいですねえ! もともとそういう技術をお持ちだったんですか?

岩瀬 いずれも独学なんですけどね。自分が出る試合の文章を自分が書いていましたよ(笑)。その際も竹内さんが私の赤ペン先生でした。竹内さんはサポーターズクラブで指導的な役割を担ってくれただけでなく、私の国語の先生も引き受けてくれていました(苦笑)。今は地元紙に月イチでコラムを書いているんですが、まともな文章が書けるようになったのも今は亡き竹内さんのおかげだったと思っています。

――なるほど。それにしても、選手と広報スタッフの両立って、大変だったんじゃないですか? 実質、ボランティアみたいなものだったと思いますが。

岩瀬 大変は大変でした。マッチデーを作るのが忙しくて、寝ないでそのまま練習に行ったことも何度もありましたし。ただ、自分は苦労だと思っていなかったですね。実は大学時代、親に頼らずに2日に一度は寝ていない生活をしていました。だから、あまり苦労だと思っていなくて、むしろ楽しくやっていましたね。

――とはいえ、選手生活にまったく影響がなかったとは思えないのですが。

岩瀬 TDK最後のシーズンとなった09年、序盤はあまり出番を与えられなかったんです。それで先輩が「そのまま終わっていいのか?」って練習前と練習後に個人トレーニングを組んでくれたことがありました。当時のコーチで、このクラブを語る上では欠かせない横山博敏さんからは「そんなにクタクタな状態で練習をして、パフォーマンスが上がらなかったら、それがお前の評価だからな」と言われて。

――もっともな意見だと思いますが、岩瀬さんは何と答えたのですか?

岩瀬 「その評価でかまいません」と。私はどんなに疲れていても、練習で手を抜くことはしないし、そうすることで自分の限界値を上げられると思っていましたから。ありのままの姿を評価してほしいと思っていました。そしたら夏以降はコンスタントに出場することができて、次の年も選手として残ることができました。

 ただ、さすがにクラブ化1年目となると、スタッフとしての業務もハードになってきて、どこかで仕事を言い訳にしている自分がいました。その時に思ったのは、自分の費用対効果ならぬ自分対効果です。Jリーグに昇格するまで選手としてクラブに貢献することが本望ですが、できたばかりのクラブでしたので、私がフロントに入り力を注いだ方がクラブ全体のためになると思い、決断しました。

――決断のタイミングはいつでした?

岩瀬 その年の9月末か10月頭くらいですかね。「自分はプレーヤーとして、来季はピッチに立っていない方がいと思います。でも最後の最後まで、クラブのためにできることはやります」って監督に言いました。

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