「今季の目標は『オシムさんを超えること』でした」 間瀬秀一(愛媛FC監督)インタビュー<2/2>
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■ジェフ市原だけが履歴書の返事をくれた
――ここから間瀬さんのこれまでのキャリアについて伺いたいと思います。2000年にクロアチアの2部のクラブで現役を終えてから、クロアチア語を学ぶためにザグレブの語学学校に留学されていますよね。なぜスペイン語やポルトガル語ではなく、あえてマイナーな言語を習得しようと思ったんでしょうか?
間瀬 とりあえず英語とスペイン語はある程度マスターしていて、クロアチア語も日常会話やサッカー会話くらいはできるようになっていたんです。ポルトガル語はスペイン語に似ているので、まあ何とかなるだろうと。であれば、クロアチア語に磨きをかければ、Jリーグのどのクラブに行っても通訳の仕事はできるだろうと考えたわけです。
――それにしてもなぜ、引退後のキャリアが通訳だったんでしょうか?
間瀬 これはいろんな取材で言っていますけど、僕はサッカー選手を終えたら貿易ビジネスをやろうと思っていたんですよ。ただ、自分がプロレベルでサッカーをやって、言葉もいくつも話せる。それが活きる仕事が何かなと思った時に、Jクラブでの通訳が思い浮かんだんです。それで、過去に旧ユーゴ系の選手が所属していたクラブに履歴書をメールで送ったんですね。そうしたらジェフ(市原=当時)だけが返事をくれたんです。
――ほう、ジェフだけでしたか。
間瀬 普通、そういうクラブ宛のメールって、なかなか強化部まで届かないと思うんですよ。でも、たまたまジェフの場合、当時GMだった祖母井(秀隆)さんのところまで、僕の履歴書が届いたんです。
――まさに祖母井さんが、オシムさんにオファーしていた頃だったんでしょうね。
間瀬 そうです。ただし、当時の僕はもちろんそんなこと知らなかったですよ(笑)。ついでに言えば、イビチャ・オシムという人のことも知らなかった。かつてユーゴスラビア代表の監督をやっていたとか、ヨーロッパ中でその名を知られていたとか、あとになって知ったことです。それで、初めてお会いしたのがオーストリア。
――自宅があるグラーツですね? 面接みたいな感じだったんでしょうか?
間瀬 そうです。と言っても、一緒に食事しただけなんですけど、会った時にただならぬオーラを感じました。というか、怖かったです(苦笑)。190センチの巨体と、眼光鋭い眼差し。この人の通訳をやるのかと。
――それにしても、通訳になろうと思って、最初に担当したのがいきなりオシムさんというのは、間瀬さんの強運ゆえだと思うんですけど(笑)、ものすごいプレッシャーもあったのではないでしょうか?
間瀬 プレッシャーはありましたけど、この仕事は度胸がないとできないし、日々命がけで生きているという自覚があります。実際、海外も含めて3~4回ほど死を意識した瞬間を経験していますから。とはいえ、オシムさんの通訳はやっぱり簡単な仕事ではなかった。実際、僕は過労で2回倒れています。初めてですよ、過労で倒れたのって。それで病院で点滴を打っていたら、コーチから電話がかかってくるんですよ。「間瀬、大丈夫か? 今日は2部練だから、午後は出てきてくれよ」って(笑)。
――うわあ、完全にブラックじゃないですか(笑)!
間瀬 というか、それくらいオシムさんの通訳は僕じゃないと務まらない状況でした。ただオシムさんの言葉を訳すだけでなくて、人間関係も含めて。だから点滴を打っていても、コーチとしては「出てきてくれよ」と言わざるを得ないんですよ。それと、僕はオシムさんに対して要求もします。違うと思ったら「それは違います」とはっきり言いますし。
――で、間瀬さんが「それは違います」と言った時のオシムさんの反応は、どんな感じでしたか?
間瀬 受け入れるんですよ、これが。そこが、あの人のすごいところ。むしろ「俺が言っていることが、一番正しいわけじゃない」って。自分が監督になってみて、若いスタッフの意見にも耳を傾けているのは、そうしたオシムさんの姿勢から学んだところでしたね。
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