フロンターレという温かいクラブに迎えられて 江藤高志(『川崎フットボールアディクト』編集長)インタビュー<2/2>
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江藤氏と出会って間もない頃。2005年、テヘランにて
■ライターのきっかけとなったパラグアイ行き
――ここからは江藤さんがサッカーライターとなって川崎を追いかけるまでについて、振り返ってみたいと思います。プロフィールを見ると、大分県中津市出身で、大学院を中退後に出版社勤務を経て99年にフリーライターになっていますよね。最初からサッカーを書きたいと思っていたんでしょうか?
江藤 そうですね。僕自身、ハンス・オフト監督が日本代表を率いて、アメリカでのワールドカップを目指す過程の中で、サッカーにどハマりしました。ただ、当時のスポーツ紙の記事を「レベルが低い」と思っていたんですね。「自分なら、もっといい原稿を書けるのに」って思っていたのが大学生くらいの時。
――大学ではどんな勉強を?
江藤 機械工学です。
――思いっ切り理系ですね。
江藤 理系って、実はサッカーと親和性が高いと思っているんです。試合を見ていて、勝利の要因は何かと考えて自分なりに仮説を立ててみる。そして試合後に、監督なり選手なりに自分の仮説をぶつけて確認する。こういうプロセスって、まさに理系なんですよね。僕は大学で、実験を通しての仮説の構築と実証──それらを考察してレポートにまとめる、というようなことをしていて、物事を論理的に考える訓練を受けていました。だからわりと違和感なくサッカーライターになれたと思っています。
――なるほど、よくわかります。私もよく「藝大を出てライターになるなんて珍しいですね」と言われますけど、目の前のモティーフをわかりやすく再現して第三者に伝えるというのは、デッサンも文章を変わらないんですよね。まあ、これは余談ですが(笑)。で、大学を卒業されてからは?
江藤 大学院に進んだんですけど1年で辞めて、それでスポーツの部署がある新聞社や出版社の就職試験を受けていたんです。でも、なかなか上手くいかなくて、結局パソコン系の出版社に編集で入れてもらいました。まあ、いつかはスポーツライターになったときにプラスになるだろうと考えて。
――99年のコパ・アメリカに日本代表が招待された時、開催国のパラグアイに行っていますよね? その時もまだ社員だったんですか?
江藤 直前まで社員だったんです。それでパラグアイに行くために、有給5日間に前後2日を付けて9日間休もうとしたんですよ。そしたら「お前、ふざけるな」と(笑)。「どうしても行きたいなら、辞めてから行け」と言われました(笑)。
――まあ、そうなりますよね(笑)。パラグアイでの日本代表は、ボリビアに引き分けたものの、ペルーとパラグアイに敗れてグループ最下位で帰国します。結果として収穫に乏しい大会だったわけですが、江藤さんはパラグアイから何を持ち帰ったんでしょうか?
江藤 うーん、やっぱり人脈ですかね。現地で六川さん(則夫=フォトグラファー)と知り合ったんです。帰国後、スタジアムで六川さんと再会したんですが、そこから一気に人脈が広がっていきましたね。その年のJ2最終節に、大分トリニータがやらかしてJ1昇格を逃すという現場に僕はいたんですけど、六川さんの紹介で『フットボールウィークリー』で初めて署名原稿を書くことができたんです。
――なるほど。パラグアイでしっかりチャンスを作って、それがライターデビューにつながったと。
江藤 そうなんです。フリーになってからも、スタジアムでサッカー雑誌のパスをぶら下げている人がいたらとにかく名刺を渡していました。でも実績がなくて相手にはしてもらえていなかったんですが、大分の原稿のコピーを渡すことでライターの仕事につながっていくんです。そのきっかけになったのがパラグアイで、六川さんとの出会いだったんですよね。
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