宇都宮徹壱ウェブマガジン

Jリーグ黎明期の貴重な「語り部」を失って 木之本興三さんの生前の言葉を振り返る

「長い間、病と闘いながら不屈の精神で日本サッカーのプロ化に取り組んだ木之本君の功績は誰もが認めるところです。彼がいなかったら果たしてプロ化の機運が起こり得たのか。そのことを思うと心からの敬意と感謝を捧げなければなりません」

 以上がJFAからリリースされた、川淵三郎最高顧問のお悔やみのメッセージの一部である。「木之本君」というのは、去る1月15日に亡くなった、木之本興三さん。元Jリーグ専務理事、元JFA常務理事、元JFA2002年強化推進本部副本部長といった輝かしい肩書が並ぶが、この人を一言で言うなら「Jリーグを作った男」である(「え、川淵さんじゃないの?」と思った方は、「Jリーグを作った男」で検索してみてほしい)。

 もっとも木之本さんの生涯は、栄光よりもむしろ「過酷」「苛烈」と表現したほうが適切だろう。26歳の時、難病のグッドパスチャー病を発症(当時、国内で12例しかなかったそうだ)。腎臓2つを摘出し、人工透析を続けながらJリーグ立ち上げに奔走した。そうした献身にもかかわらず、ほとんど「放逐」と言ってよい形でJリーグを去ることになり、53歳の時にはバーャー病(閉塞性血栓性血管炎)という新たな難病によって、まず右足を、続いて左足の切除を余儀なくされた。

 享年68歳。今の時代なら十分に「まだお若いのに」と言えるだろう。とはいえ、最初の大病を患った26歳のときに、医師から「余命5年」と宣告されたこの人のことだ。以後の人生を文字通り、命を削るように日本サッカーの発展に捧げてきたことを思えば、まさに完全燃焼と言える生涯だったのではないか。

 木之本さんの功績については、すでに先輩同業者がさまざまな場で言及されているので、ここで私がなぞる必要はないだろう。私が今回の訃報で何より当惑するのは、Jリーグ黎明期の貴重な「語り部」を失ってしまった、という事実である。来年で開幕から四半世紀を迎えるJリーグは、確実に「歴史化」しつつある。そうした現状を鑑みるなら、木之本さんがご存命のうちに、もっとお話を伺っておくべきだったと悔やまれてならない。

 木之本さんには生前に2度、インタビューしたことがある。そのうち、Jリーグ開幕前夜から2002年までの知られざる内情を語っていただいた最初の取材は、個人的にも強い印象があるだけでなく、歴史的証言としても極めて価値のあるものであった。インタビューしたのは2013年8月22日。なぜこの日付を覚えているかというと、取材後にスマートフォンを見たら藤圭子の投身自殺が報じられていて驚愕した記憶があるからだ。

 以下、この時のインタビューで個人的に印象に残っている、故人の証言を紹介することにしたい。

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