女子サポを増やすキモは「ハードルを下げること」 シンディー(ものまねタレント)インタビュー<2/2>
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■「何も怖くなくなって」お笑いの世界へ
――ここから、シンディーさんのこれまでのキャリアについて伺いたいと思います。ご出身は山形県の酒田市。昔から人を笑わせるのがお好きだったんですか?
シンディー 小学校の低学年の時は、「本当にクラスにいたの?」っていうぐらい、静かな子だったんです。でも3年生のときの担任の先生、女性だったんですけど「あなたはあなたらしくしていればいいのよ」と言ってくれて。今にして思えば、個性を大切にしてくれる先生だったんですけど、そこから少しずつ性格が外に向くようになりましたね。中学時代に学校の先生のものまねをして、みんなから「似てる!」って言われましたね。
――その後、地元の高校を卒業されて、東京ビジュアルアーツという美術系の専門学校に入学されます。クリエイティブ系の仕事を目指していたんですか?
シンディー 私、出版社に勤めたくて上京したんですよ。本を作りたくて、まずは専門学校で勉強しようと。その時はお笑いの世界に行くことなんて、全然考えていませんでした。そういえば、同じクラスに野崎治之さんっていう、バリバリの(川崎の)サポーターさんがいて。今は栃木SCのフロントにいる人なんですけど(参照)。
――それは奇遇でしたね。サッカーとのつながりは、実はその時からあったと。
シンディー いえ、当時はまだサッカーのこと全然知らなくて。野崎さんは毎週金曜日になると、なんで学校にタイコを持ってくるんだろうって(笑)。その野崎さんとは、卒業後15年の時を経てJ2党で再会しました。お互いにサッカーに関わる仕事をしているなんて知らなかったから、ふたりで大爆笑して(笑)。そういえば私の持ちネタに「フロンターレのチャントを中島美嘉さんで歌ったら」というのがあるんですけど、あのチャントも野崎さん作だと聞いています。
――それで卒業後、無事に出版の世界に入ることができたんでしょうか?
シンディー それが就活に失敗したんですよ。ちょうど就職氷河期の頃で。実は(卒業前に)出版会社に潜り込んでお手伝いはしていたんですけど、現場で仕事をするにつれて「私はこういう仕事をしたくて2年間勉強していたんだっけ?」と足が止まってしまったんです。結局、就職先が決まらないまま卒業して、居酒屋で夜7時から朝5時まで週6で1年くらい働き続けて。そしたらふと「海外に行こう」と思いニュージーランドに行ったんですよ。ホームステイしながら、日本食レストランでアルバイトして、それから1年かけて南島と北島を全部ぐるっと周っていました。
――その時の経験は、今の仕事にどう生かされています?
シンディー 物事に動じなくなりましたね。出発前、知っている英語は「サンキュー」「ハロー」「グッバイ」くらいでしたから(笑)。あと、向こうでカメラと現金とパスポートが入ったポーチを置き引きされたんですけど、言葉が通じない国でそういう経験をしたら、もう何も怖いものはなくなりましたね(笑)。
――なるほど(笑)。で、ニュージーランドから帰国後、シンディーさんはお笑いの世界に入っていくわけですが、きっかけは?
シンディー 今から8年か9年くらい前、「にしおかすみこさんに顔も声もそっくりですね」とスカウトされたんです。気がついたらボンテージの格好で舞台に立って「にしおかすみこだよ!」ってやっていました。もう、何も怖くなくなっていましたから(笑)。
――今、ネットで検索していたら「にしおかすみっこ」名義での当時のプロフィールが出てきました(参照)。確かに似ていますが(笑)、いきなりボンテージファッションで舞台に上がって絶叫するっていうのは、抵抗はありませんでしたか?
シンディー それが、お客さまから「わー、似てる!」とか「おもしろかったよ!」とか言っていただけて、ものすごく嬉しかったんです。人に喜んでもらえるというのが、こんなに幸せなことだとは思わなかったし、自分にそういうことができるというのも、考えたことがなかったので。
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