ブレーメンで見た「原風景」を長野県に作りたい 土橋宏由樹(ボアルース長野GM)インタビュー<2/2>
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■2日に一度、松本通いを続けていたバドゥ
――パルセイロからのオファーは、どのようにしてもたらされたんでしょうか?
土橋 当時、ブラジル人のバドゥさんがパルセイロの監督だったんですが、通訳をやっていた臼井(弘貴)さんから「監督と会ってもらえないか」という電話をもらいました。毎日のように臼井さんから「土橋さん、バドゥが話をしたがっているんですが、時間ありますか?」って、電話がくるんですね(笑)。でもって、バドゥも2日に一度くらい松本に来て。
――そうだったんですか? むちゃくちゃ目立つじゃないですか(笑)!
土橋 向こうもいちおう気を遣ってくれて「私と松本で会っているのが見られたら、君が迷惑するだろうから場所を指定してくれ」とか言って。こっちとしては、条件もわかったし熱意も伝わったからいいですって言うんだけど、向こうは「いや、私は君とサッカーの話をしたい」と(笑)。それで、当時住んでいた近くのマニアックな喫茶店で待ち合わせたんですけど、「昨夜のCLは面白かったな」とか「ロナウジーニョのプレーを見たか」とか、そういう他愛のない会話をして長野に帰っていくんですよ(笑)。そういうのが2週間ぐらい続きました。そしたら、パルセイロへの返事をしなければならない期日前日に、山雅から「選手で契約できないか?」という再オファーをいただいたんです。
――これはまた、非常に絶妙なタイミングだったんですね。それで、どうしました?
土橋 すぐに通訳に電話をしました。「駆け引きをするのは好きじゃないんで、素直に言いますけど、実は山雅から再オファーをもらいました。僕は覚悟をもって松本に来たし、山雅というクラブが好きなんです。もう少し、考える時間をいただけますか?」って正直に言いました。そうしたらバドゥが通訳を介して「君のサッカー人生なのだから、好きなだけ考えなさい。君の選んだ道はわれわれも応援したいし、パルセイロを選んでくれたら一緒に仕事がしたい。どちらを選択しても、私はこの出会いを大切にしたい」と言ってくれたんです。そこで思いましたね。これほど僕のことを必要としてくれて、リスクを恐れずにオファーしてくれているんだから、僕はこの人たちを裏切れないなと。
――それで期日に返事をされたんでしょうか?
土橋 しました。山雅にも「長野パルセイロからオファーをいただいたので」というお断りの電話をすぐに入れました。
――いわゆる「禁断の移籍」を決断したわけですが、いろいろとご苦労もあったのでは?
土橋 山雅側のリアクションは想定していましたけど、意外だったのはパルセイロ側が最初はなかなか僕のことを受け入れてくれなかったことですね。選手についてもそうで、要田勇一とか籾谷(真弘)とか、僕以外にもプロ契約の選手はいたんですけど、特に同い年の要田はライバルとしてバチバチやっていたこともあって、なかなか心を開いてくれませんでした。バドゥさんも、わりと放ったらかしという感じで(笑)。そんなこともあって、新しいチームに溶け込むまでに1カ月くらいかかりました。
――けっこう大変だったんですね。打ち解けるきっかけは何だったのでしょうか?
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