宇都宮徹壱ウェブマガジン

底辺と秘境から見た「もうひとつのプロ野球」 石原豊一(『もうひとつのプロ野球』著者)インタビュー<1/2>

 先週のパシフィックリーグマーケティングに続き、今週のWMも「あえて」野球を取り上げることにしたい。といっても、私のような野球音痴でも十分に楽しんでいただける内容であると自負する。出てくる話題を列挙すると、「開幕直前に潰れてしまうアメリカの独立リーグ」「1カ月半しか開催されないイスラエルのプロ野球」「MLBを目指すべくイタリアのアカデミーに参加するモルドバ出身の若者」「四国アイランドリーグでプレーしているブルキナファソの選手」などなど──。

 今回、ご登場いただくのは2年前に『もうひとつのプロ野球』という著書を上梓した、石原豊一さんである。とある編集者より「宇都宮さんのような仕事を野球でしている方がいらっしゃるんですよ」とご紹介いただき、今回のインタビューが実現した。

 石原さんのフィールドは、たとえば四国アイランドリーグに代表される国内の独立リーグだったり、アメリカのマイナーリーグや独立リーグ、さらにはアフリカの野球の普及事情だったりする。先ごろ開催されたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)では、イスラエル代表が旋風を起こして話題になったが、知られざるイスラエルのプロ野球事情をレポートした『エレツ・ボール―野球不毛の地、イスラエルに現れたプロ野球』という著書もある。

 さまざまなカテゴリー、そして野球がマイナースポーツである国々を渡り歩く石原さんの視点は、まさに私自身のこれまでの活動に重なるところが少なくない。そんなわけで今回は、野球とサッカーという競技を越えて、石原さんとの縦横無尽な語らいをここに再現することにしたい。(取材日:2017年3月8日)

■研究対象としての「プロ野球」とは?

――今日はよろしくお願いします。石原さんは万博のあった1970年に大阪にお生まれということですが、幼いころから身近に野球があったという感じでしょうか。

石原 そうですね。僕は大阪市内の、ちょうど(京セラ)ドームのすぐ近くで生まれ育ったんですが、あのへんは下町で野球がある種の通過儀礼みたいな感じなんですね。小学校に入ると親にグローブを買ってもらって、近所に広場があって、そこに集まってくる知らない子なんかと一緒になって野球をやっていました。その後、わが家は奈良の新興住宅街に引っ越したんですけど、そしたらすごいカルチャーショックがあって。

――といいますと?

石原 遊ぶとき、アポを取らないと受け付けてくれない友だちがいたんです(笑)。いきなり遊びにいくと「約束していないの? じゃあダメ」って言われてびっくりして。大阪の下町では、お互い知らん子同士が野球をするのが当たり前だったんですけどね。

――まさにストリートサッカーと同じですが、そういった風景というものは、世界中でどんどん失われているのかもしれないですね。ちなみに石原さんが野球をやっていた広場は、今はどうなっているんですか?

石原 たまに懐かしんでふらっと歩いたことはあるんですけど、風情はそのままでもガキンチョが集まっていた駄菓子屋がコンビニに変わっていたり、広場だった場所に老人ホームが建っていたり、そういう時代の変化は感じます。野球をやっている子もめっきり減っている感じですね。そもそも遊びの野球ができる場所がない。私のジョギングコースには、ちゃんとしたグラウンドがあるんですが、そこでお母さん連れで2~3人の子供たちが野球をやっていました。つまり大人が場所を借りてあげないと、野球を含めたボール遊びができないという、そういう時代ですよね。

――うーむ、それもまた野球に限った話ではないですよね。そんな石原さんが野球を研究対象とするようになったきっかけは何だったのでしょう?

石原 最初のきっかけは、1995年に最初の就職先を辞めた時です。それまで大阪の某進学校にめていたんですけど、1年かけて世界一周をしようと思って、最初にニューヨークに飛んだんですね。ちょうど向こうに滞在していた時に、オウム真理教の地下鉄サリン事件があったんです。当時、弟が東京に住んでいたで、慌てて実家に国際電話したのをよく覚えています。

――そりゃまた、鮮烈な記憶ですよね。ニューヨークからはどちらへ?

石原 アルゼンチンに渡って、パタゴニアの一番南にあるウシュアイアいうところまで行ってから南米をふにゃふにゃ回って。ベネズエラは当時、入国が厳しかったので飛行機で入って、さらにグアテマラからメキシコに入るんです。今にして思えばメキシコでの経験が、その後の活動の基礎になっていたと思うんですよ。とりあえず現地のメキシカンリーグを観戦しようと思って球場に行ったら、係員の人が僕を手招きしてグラウンドに入れてくれたんです(笑)。

――その感覚、よくわかります。私も、ものすごくマイナーな国のスタジアムを訪れると、試合がない日だったら地元の人から歓迎されて中に入れてもらうことがよくありましたから(笑)。

石原 メキシカンリーグは、その後もたびたび観に行っていますが、当時は日本人がぷらっと訪れることなんてまずなかったですから。おそらく係員の人は、私を取材者かなんかと思ったんでしょうね。「ペリオディスタ(periodista)」?」って聞いてきて、あとでスペイン語の「記者」という意味だと知るんですけど。その後、アメリカに行った時にもマイナーリーグを観戦したんですが、ものすごい薄給でプレーしている選手が普通にいて、そこで自分の中で「これはスポーツの労働移動ではないかと。あの時の経験がきっかけになって、36歳くらいの時に自分の研究対象になりましたね。

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