【無料掲載】日々雑感―興梠慎三―その覚悟

 

五輪への想い

松本山雅とのアウェー戦を1−2で辛勝した2015年7月11日の夜、興梠慎三は自らが決勝ゴールを叩き込んだにも関わらず、ミックスゾーンで相手チームへの不満を爆発させた。

「あんな自陣に引いてサッカーして、楽しいのかね? 俺だったら我慢できない。常に敵陣でプレーして、常に勝負するよ、俺は」

対戦相手との力量を把握して堅守速攻に懸ける松本山雅の戦略に辟易したコメントを発した。しかし彼の怒りの矛先は松本山雅というチーム、もしくは選手ではなく、ある一点に集約されているようにも感じた。

「大体、いつもボードやノートとにらめっこして、チマチマと考えてんでしょ」

興梠が指弾していたのは反町康治監督に対してだった。なぜ、こんなにも敵将に楯突くのだろう。普段の彼がほとんど他人を蔑んだりしないのを見てきただけに、この時ばかりは首を傾げざるを得なかった。そこで鹿島アントラーズ時代から彼のことを取材する記者に疑問を投げかけてみた。すると、こんな明快な答えが返ってきた。

「それは、(興梠)慎三が北京オリンピックの時、当時の五輪代表監督だった反町さんからU -23日本代表に選出されなかったからだよ」

2008年夏の北京オリンピック。鹿島で頭角を現していた興梠は同い年の岡崎慎司、本田圭佑、細貝萌らと共に五輪代表入りを嘱望されたが、本大会へのメンバー入りを果たせなかった。その後、彼は在籍する鹿島で奮起を期してスーパーサブ的立場からレギュラーを掴み取り、北京オリンピック後には岡田武史監督率いる日本代表にも初選出された。

「鹿島で先発で出ていたら、いつか(日本代表に)選ばれると思っていた」と語った彼は同時に、「反町さんを見返したい。(五輪代表を)落選した時の悔しさは忘れないから」と、その屈辱をバネにしたことも公言している。

2016年5月。手倉森誠監督率いるU-23日本代表はリオ・オリンピックに臨むに際し、23歳以上の選手を3人加えられるオーバーエージ枠の採用を明言した。その手倉森監督がリストアップした選手の中に興梠の名前があった。しかし指揮官がクラブを通して出場を打診したが、色良い返事を得られなかった。7月31日で30歳を迎える興梠にとって、今の自らのサッカー人生は浦和と共にあり、その力を浦和のためだけに還元させたい思いが強かったからだ。

20141122日。Jリーグ優勝の命運を左右するガンバ大阪とのタイトルマッチ前日。約1か月前のJリーグ第30節・鹿島戦で右足腓骨骨折を負っていた興梠が実践形式のミニゲームに参加していた。ドクターの所見では試合出場できる状態ではなかったが、志願して自己をアピールした。しかし練習後に指揮官からベンチ待機を明言され、彼は駄々っ子のように身体をくねらせて悔しさを露わにした。

G大阪戦の88分、相手FW佐藤晃大に先制ゴールを浴びると、ペトロヴィッチ監督は興梠の交代出場を決断する。しかしピッチに立ち、相手DFと身体をぶつけた瞬間、彼の足に激痛が走った。結局彼は何もできず、倉田秋にダメ押し点を決められてチームは敗戦した。

戦力にならないのに出場を直訴して足を引っ張った。私的な我儘によって迷惑を掛けてしまったことに懺悔し、興梠は残りの第33節・サガン鳥栖戦、34節・名古屋グランパスを欠場した。チームが連敗してリーグ優勝を逸した時、埼玉スタジアムのスタンドで仲間を見守った彼は帰路に着く車中で一言も言葉を発しなかった。ハンドルを握り、無言でフロントガラスを見据える。そこには彼の深い悲しみと、拭いがたい後悔が映し出されていた。

浦和でのタイトル、その想い

興梠が2013シーズンに鹿島から浦和へ完全移籍して以降、浦和はひとつのタイトルも獲得していない。

「うん、やっぱりね。タイトルに飢えてるよ。たぶん、このチームの中で俺が一番。だって、ここに来る前の俺は、それが当然の環境だったんだから」

2016年6月。一度はオーバーエージ選出を断られたが、手倉森監督は興梠の抜擢を諦めていなかった。敵陣中央でボールを収め、巧みな技術でコンビネーションでき、狭小な敵陣で抜け目なくゴールゲットできるFWを欲していた五輪代表指揮官は、誰よりも興梠の力を欲していた。そこで彼の気持ちを翻意させるべく、直接出向いて本人と向き合い交渉した。興梠は律儀で義理人情に厚い男だ。指揮官の直談判を無理には断れず、8年前に志半ばで五輪出場の機会を逸したことも相まって、彼はブラジルで戦う情熱を芽生えさせていく。

オリンピックは年齢制限のある大会で、フル代表が雌雄を決するワールドカップとは趣が異なる。しかしブラジル代表のネイマール(バルセロナ/スペイン)が五輪制覇に闘志を燃やしてコパ・アメリカ・センテナリオを欠場したように、昨今はオリンピックでの優勝をファーストプライオリティに捉える選手もいる。興梠自身も残りの限られたサッカー人生で世界の舞台に立ちたい野心がある。今季のJリーグは昨季同様に2ステージ制、チャンピオンシップを経てタイトルを争う。ならばまず、浦和が1stステージを制してチャンピオンシップへの出場権を確保すれば、チームに掛ける迷惑も軽減されるのではないか―

そんな中、浦和は困難の時を迎えていた。チームは5月14日のJリーグ1stステージ第12節・アルビレックス新潟戦からリーグ戦4試合連続無得点。また興梠自身もリーグ、ACLを含めて9戦連続で無得点の状況が続いている。しかもJリーグ1stステージ第16節・サンフレッチェ広島戦を落としたことで(4)、チームは1stステージ制覇の可能性が途絶えた。浦和が今季のJリーグタイトルを獲得するためには2ndステージ制覇、もしくは年間勝点で3位以内に入るしかない。この状況でもし興梠がブラジルへ向かえば、チームはエースFW抜きで最低4試合、最大でも5試合を戦うハンディを負う。

2016年6月14日。日本サッカー協会はリオ・オリンピックに臨むU-23日本代表のオーバーエージ枠にDF塩谷司(広島)、DF藤春廣輝(G大阪)が加わると発表した。だが、手倉森監督が直接交渉した興梠の名前はそこに無く、もう1枠はJリーグ1stステージ終了直後の6月25日に発表される旨が内示された。

2016年6月18日。広島に敗戦した直後のミックスゾーン。姿を現した興梠は開口一番「自信無くすよ……」とこぼした。チームはステージ制覇を逃し、今後も続く連戦の見通しが立たない。疲労を蓄積させた選手たちはコンディションを保てずにあがいている。こんな状況で、自らがチームを離れることなどできるのだろうか。もとより、今の自分の体調で代表の力になれるのか、浦和でのタイトル獲得は何にも変えがたい究極の欲求なのに、自らそれに関わることを放棄するのか…。

手倉森監督は本日行われたU-23南アフリカ代表との親善試合に臨む代表メンバー発表会見の場で、こう答えている。

「オーバーエージ組の選手たちは、ブラジルに行ってから、その時間でも十分すり合わせすることができるなと自分の中では自信があるので、その時でもいいなと感じています。(オーバーエージの)もう1枚の話が出ましたけれど、こっちは(返事を)待っている状況です」

覚悟を決める

もちろんクラブ、チーム側の事情もある。タイトル争いをするチームとしてはエースFWの離脱は大きな痛手だ。日本サッカー界全体の影響も加味した上で、今も仔細なディスカッションが行われているだろう。

本来ならば結論は出ている。異例とも言える返答の先延ばしは、興梠慎三という人物のパーソナリティを明確に表わしている。もしブラジル行きを断ってレッズに専念しても、あるいは五輪の舞台に打って出て自らの存在価値を高めようとしても、彼の心根は変わらない。既にこの時点で去就を逡巡していることが、その想いを示している。

もし残るなら、今以上に全力を尽くして闘う。もし一旦離れるなら、帰還した時、今以上に全力を尽くして闘う。チームメイトが苦悶の表情を浮かべたら、仲間を背負ってでも闘う。ゴールを決めて勝利する。タイトルを獲得する。仲間と歓喜する。涙する。

何を選択しても、それが興梠慎三の覚悟だ。

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