【冒頭無料】駒井善成インタビュー(1)「宇佐美と写っている写真ばかりあります」【My Story〜僕の歩んできた道】

デッドボールが分岐点?

僕が地元のサッカー少年団に入ったのは小学校1年生の頃です。花山サッカー少年団という地元のサッカークラブでした。幼稚園の頃に友達と遊びでサッカーをしている時に右からきたボールをダイレクトで合わせて、それが結構良いシュートだったから気持ち良くて、それで『サッカーがしたいな』と思ったんです。

その時はドリブルなんて全然できなくて、そのシュートも、もう一回やろうとしたけど上手くいかなかった。最初にたまたま上手くシュートできたのが良かったんですね。その感触が忘れられなくて、サッカーを始めました。

僕が住んでいた地域はサッカーがそれほど盛んではなくて、京都府内でも僕らの地域が飛び抜けて強いわけでもない、普通のところでした。もしかしたら周りは野球をやっている友達の方が多かったかもしれません。あのシュートがなければ野球をしていたかもしれない? いや、野球はデッドボールが怖かったので、だぶんやっていないと思います。結局サッカーをしていたんじゃないかな、なんとなく。

ポジションはいろいろなところをやりました。ストッパー、スイーパーからFW、トップ下。サイドより真ん中のポジションが多かった。少年団の部員が少なかったから様々なポジションでプレーして、その間の3年間が自分の基礎になったので、とても良かったと思っています。

花山サッカー少年団が所属していたのは京都府の山科支部というところで、いつも成績は下の方で、支部内で2位までいったのが上出来でした。それだけで皆が盛り上がるくらいの強くないチーム。でも3年間だったけれども、友達と良い関係が築けたし、みんなとボールを蹴るのが楽しかったので、サッカーの楽しさを知ることができたという意味で、僕にとってとても有意義な場でした。

僕には兄がひとりいます。でも兄はサッカーをやっていなかった。それで兄も僕の影響でサッカーを始めましたが、兄は中学受験をするために2年間くらいしかサッカーをできなかった。その後兄は中学校でもサッカー部に入ったけれども、結局辞めてしまいました。でも僕はサッカー一筋でしたね。そんな時、父親から『(京都)パープルサンガのジュニアユースのセレクションを受けてみるか』と言われたんです。僕は全然ピンと来ていなかったけども、とりあえず『受けてみようかな』と。

自信は、たぶん、それほどなかったと思います。そもそも京都サンガがどんなクラブなのかも分かりませんでした。でも、花山サッカー少年団の監督が事前に僕を推薦してくださっていたらしいんです。僕の父親も花山でコーチをしていて、僕を京都サンガのセレクションに受けさせたらという話が出たらしく、それで父親が僕に言ったらしいです。ちなみに他のチームメイトはセレクションを受けていません。僕ひとりだけだった。それは覚えています。

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