松沢呉一のビバノン・ライフ

間違いたい欲望・・・人間は、どうしても逸脱してしまう存在である [ビバノン循環湯 4] (松沢呉一) -9,052文字-

これは10年ほど前に代官山の「UNIT」のフリーペーパーでやってぃた連載です。長いですけど、まとめて一度に出します。「ろくでなし子再逮捕」のシリーズにも少し関わる話です。これは2年目に書いたもので、1年目は「人はどういう場所でチンコを出していいのか」を論じてます。法的な意味ではなく、空間論的な意味ですが、そんなことばっかり書いている私です。そちらもそのうち出しますかね。

冒頭に出てくる「24時間マラソン」の話は、週刊誌で実験する企画もあったのですが、アンガールズが実践したため、興味をなくしました。茂木健一郎が、「なぜ人はジェットコースターに惹かれるか」という話の説明として、ここに書いているのと似たような説明をテレビかラジオでしていましたが、その影響ではありません。それより先に書いてあったし、茂木健一郎は読んだことがありません。つまりはありきたりの発想ってことですかね。

 

 

間違いたくない欲望と間違いたい欲望

 

vivanon_sentence 人間は「間違いたくない欲望」とともに「間違いたい欲望」を抱いていて、このことをわかっていると、人間の行動や世の中の仕組みがとてもよく見えてきます。また、この欲望は、音楽や文学、映画など、あらゆる表現にも関わっていますから、それらが存在する意義も理解しやすくなります。

そもそもこのことに私が着目するようになったのは「歩くこと」がきっかけです。昨年夏から私はやたらと歩くようになっています。日テレの「24時間テレビ」に挑戦するためです。

実際には26時間ですけど、タレントさんが100キロ走るじゃないですか。あれで、日本国中が感動に包まれるわけですけど、ひねくれ者の私は、電卓片手に計算をしました。仮に一度も休まずに歩き続けると、1時間4キロ弱。早足であれば、余裕で時速5キロは出せますから、6時間の睡眠をとれます。となると、走るから後半バテるのであって、最初から歩けばいいのではないか。

それを日テレの人に指摘したら、「ボロボロになるから感動するのであって、元気いっぱいに武道館に着かれたのでは感動できなくなる」と言われてしまいました。そりゃそうなんですけど、「歩いた方が楽」ということくらい認識した上で感動すべきです。

ただし、「本当に歩けば楽なのか」との疑問もありまして、歩いたところで最後はやっぱりボロボロになりそうな気もします。それを実験するために、同じコースを歩いてみようと考えました。

突然始めるのは危険なので、その訓練のために常日頃歩くことにしたのです。その結果、獲得したのは「100キロ歩ける」という確信ではなく、「間違いたい欲望」の存在を自覚することでした。意味がわからんでしょう。説明していきます。

 

 

歩くことの利点

 

vivanon_sentence私はやたらと歩きます。初めてUNITに行った時も自由が丘から代官山まで歩き、打ち合わせが終わってから、自宅まで歩いて帰りました。全コースで2時間です。この程度は屁でもない。日常です。

「歩くこと自体が好き」ということもあるのですが、「考えごとができる」「なにかしら発見がある」「ネコと友だちになれる」などのメリットがあります。もともと足腰は強いのですが、それを維持する意味合いもあり、「“松沢さんはセックスの時の腰の動きがすごいよね”と若い娘っ子に褒めてもらえる」というメリットもあります。

さらには「自分自身の行動を観察できる」という楽しみもあります。A地点からB地点まで歩く場合、最初は道を間違えやすい。私は地図を持ち歩かないようにしていますから当然です。その学習結果を踏まえて、二度目に歩く場合、より短時間で歩く道を選択し、やがて安定したコースを獲得します。おそらくは最短距離であろうと思われるコースで落ち着くわけです。

Something in the airところが、ここで私は妙な行動に出ます。わざとその道を外れるのです。私自身の意識としては「こっちの方がもっと近いかも」「こっちは行ってみたことがないから、試してみよう」ということなのですが、安定したコースを獲得したがための逸脱と言っていいかもしれません。

ZABADAKのアルバム「Something in The Air」聴いていたら、「鍵穴と迷路」という曲の中に「迷うために生きている」というフレーズが出てきました。私のことを歌っているのかと思いました。

これこそが「間違いたい欲望」のなせるものです。皆さんも自分や他人の行動をよく見てみましょう。「わざと間違えたがっている」としか思えないところがきっとあるはずなのです。一体この欲望はなんなのでしょうか。

 

 

辛いけど、幸せ

 

vivanon_sentence私の中には「間違いたい欲望」が確実にあって、一体これはなんなのかとまた環七沿いを歩きながら考えました。ここにおそらく通じるものを私はすでに積極的にやっていたことに気づきました。

私の造語ですけど、「生活マゾ」という言葉があります。「マゾヒズム」は性的な被虐性のことですが、性的にはマゾではないのに、性的じゃないところでマゾ的な行動をやることをそう呼んでいます。

ここ数年、うちには冷房も暖房もありません。エアコンが壊れたのを契機に「なくてもいいか」と思い立ち、以来、とてつもなく暑い夏と、とてつもなく寒い冬をすごしています。辛いんですよ、本当に。でも、幸せ。生活マゾだからです。

春と秋は至福の時を過ごせます。「今年も冬(夏)が終わって、死なずに春(秋)を迎えられた」と実感するわけですが、この至福感を先取りして、猛暑、極寒の最中でも、少し幸せです。

エアコンに続いて、洗濯機も壊れてしまったのですが、「チャンス」と思いましたね。洗濯はできるのですが、脱水ができなくなってしまい、以来、手で絞っているのですが、真冬にこれをやると、手がしびれてきて、洗濯ダコまでできて、しもやけになりました。でも、幸せ。

性的マゾの人たちはたいていエスカレートしていきます。肛門を拡張することが好きな人たちはそのうち腕を入れます。フィストファックです。生活マゾも一緒です。暑さにはなかなか慣れないのですが、寒さには慣れました。慣れると辛さが薄れてきて、面白みが減ります。

そこでこの間の冬は「窓全開プレイ」をしてました。雪が降っている日でも窓を全開にして、震えながら屋根に積もる雪を眺めます。辛いです。でも、幸せ。スキあらばマゾッてしまうのが生活マゾです。これと「間違えたい欲望」は密接な関係があるのです。

 

 

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