松沢呉一のビバノン・ライフ

カルメン・マキの世界-老害シリーズ・ロック編 1(松沢呉一) -2,893文字-

 

なぜ老害が発生するのか

 

vivanon_sentenceイチャモン屋は若くても歳をとっても存在しているわけですが、歳をとると、どうしてもイチャモンとしか言いようのない言動をする人が増えていきます。

鈍感になるということもありましょう。さらには、「お年寄りなんだから」ということで容認されやすいということもありそうです。今まで生きてきた枠組みに執着することで、若い世代が生きている枠組みとのズレが生じていくということもあります。

それらを見ていくため、「ロック老害」の例を検証してみたいと思います。カルメン・マキとキノコホテルの騒動を礼儀作法の問題としてとらえた人たちが多いようですが、全然違うと思いますよ。

以下はFacebookに書いたことを改めてまとめたものなので、そっちを読んで理解できた方は読まなくていいかと思いますが、「経年による枠組みのズレ」は案外意識できていない人が多いかもしれないので(意識できていないから歳をとると頑固でわがままになるわけで)、その辺を念入りに。

 

 

 ロック村の老害

 

vivanon_sentence昔々、あるところにロック村という人口百人ほどの小さな村がありました。狭い狭い村でありますから、時にいがみあいをしながらも村民たちは平和に暮らしておりました。

それから30年、40年という歳月が流れ、平成の大合併により、ヒップホップ村、ハウス村、レゲエ村、ソウル村、ポストロック村などの近隣の村と合併し、今や人口1万人を超えて市制が施行されました。

ところが、今も村の時代そのままに生きている人たちがいて、「同じ村なんだから、盆暮れの付け届けくらいしろ」とかつてロック村で力のあったばあさんが、隣の隣の隣くらいの駅に住んでいる若者に文句をつけました。

その若者は「知らねえよ。すれ違ったことくIMG_8044らいあるかもしれないけど、親戚でもないし、同じ町内でもあるまいし」と反発。しかし、旧ロック村の住民たちもばあさんに同調します。「昔はあのばあさんはすごかったんだぞ。敬意を払ったらどうだ」「最近の若いヤツらは礼儀を知らない」と。

というのが、カルメン・マキとキノコホテルの騒動でしょう。以下に説明していくように、実際にはもっとひどいんですけどね。

ロック村の時代を知っている世代の私ですが、「おいおい、おまえら、いつまで村に生きてんだよ」と呆れております。ホントに最近の年寄りどもは…。懐メロばっかり聴いて昔話をしてるからこうなるんじゃえねの?

 

 

好きか嫌いかは無関係

 

vivanon_sentenceまず確認しておきますが、私は「母のない子のように」のシングルもOZのアルバムも購入しています。レコードもCDもほとんど処分しましたけど、このシングルは手元に残ってました(上の写真)。カルメン・マキだからではなく、寺山修司グッズとして残してました。

対して、キノコホテルは一この騒動があってから初めてYouTubeで聴きました。すでに年寄りの領域に足を突っ込んでいると自覚しつつ、「カラオケでは今世紀の曲しか歌わない」というポリシーの私ですが、最近チェックを怠っています。反省点です。

 

 

ワシ向きの曲じゃないな。今歌いたいのは降谷建志のソロじゃ。

それはともあれ、前者には思い入れがあり(あくまで過去の時点で過去の作品に対して)、現時点で後者にはまったくありませんが、そういうことはどうでもいい。

どんな優れた作品を過去に出していても、老害は老害。「オレは元ベ平連だぁ」と因縁つけてくる人間には「いかにベ平連が日本の市民運動史に残る活動をしていたのだとしても、今のお前はサイテーのクズ」と言っていいのです。言わなきゃつけあがります。

 

 

ロック村の知られざるしきたり

 

vivanon_sentenceカルメン・マキのツイートを遡っていただけるとわかりますが、言っていることがムチャクチャです。

彼女が言っているのは、単に「挨拶がない」という話ではありません。

 

スクリーンショット(2015-06-18 14.45.57)

 

文意がわかりにくいですが、「音楽家が他人の曲をカバーする時には普通、相手の了解を得るものです。外国曲や面識のない相手なら所属事務所や組織、個人マネージャー(に了承を得て)、親しい者同士でも相手の承諾を得るのがルールです」という意味かと思います。

「他人」「相手」が著作権者、つまり作詞家、作曲家のことであればこの通り。カルメン・マキが作詞あるいは作曲している限りにおいて、こういうクレームをつけるのは正しい。

しかし、現実には該当曲はクニ河内の作詞作曲です。カルメン・マキは「私の曲」という言い方をしていますが、「私が最初に歌った曲」「私のために書き下ろされた曲」という意味でしかありません。自分のレパートリー、とくに自分のための書き下ろされ、長年歌ってきた曲は「私の曲」という感覚があるのは自然なこととして、それは権利と無関係です。

であるなら、こんなルールは存在しません。昔も今も存在しない。国内にも国外にも存在しないでしょう。いかに音楽業界のしきたりが今とは違う時代であっても、海外の曲をカバーした江利チエミ、雪村いづみも、歌手の承諾なんて得てないでしょうし、挨拶だってしていないと思います。

誤解なのかハッタリなのかはわからないですけど、ありもしないルールを他者に押し付けたわけです。この段階でお話になりません。

 

 

老害を支える人々

 

vivanon_sentenceこれについては、Togetterの「カルメンマキさんと高橋健太郎氏の会話」を参照のこと。これだけ説明をしてもまったく理解できていない様子です。

この中に美空ひばりの例が出ていますが、歌手自身が作った曲じゃなくても、カバーをする場合には歌手の承諾が必要とすることは、限界がありつつ可能だと思います。著作権者に「私を通して」と頼めばいい。そうしたところで楽譜のまんまカバーされてしまうことは避けられないと思いますが、よっぽどの大物だと、レコード会社が配慮することになるのかもしれない。

 

 

next_vivanon

(残り 519文字/全文: 3036文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ