「週刊文春」批判の側に見られる同性愛のタブー視-アウティング再考 3(松沢呉一) -3,434文字-
「「週刊文春」批判は成立しない-アウティング再考 2」の続きです。
クローゼットな人たちからの批判は無視していい
前回書いたように、カミングアウトした人に対して「あの人がゲイを代表して欲しくない」「ああいう人がレズビアンだと思われると困る」という批判は無効。
このような批判はプライドパレードにも寄せられます。「半ケツを出して踊っているような連中やお化けみたいな化粧をした連中がゲイだと思われる」といった非難です。
現実には普段通りの格好をして参加している人たちが大多数ですし、見ている側も、ゴーゴーボーイズやドラァグクィーンがすべてだと誤解するほどウブではない。
メディアはどうしてもそういうところをとらえたがる。一般の人もそういうところの写真を撮ってSNSに投稿するのは当然ですが、右の写真のような人たちの方がずっと多いのが現実(今年の東京レインボープライドより)。
結局、これらの言葉は表に出る人たちの足を引っ張る言葉でしかなく、ありもしない危惧に耳を傾ける必要はありません。
とくに、これをクローゼットな人たちが言っても無視していい。この層はヘテロとして生きているのですから、「誤解される」も何も、最初っからなんの影響も受けない人たちです。
現状を維持しているのは誰か
これらの危惧の解消は、本来、クローゼット層が担うべきです。自分たちが解消すべきであり、解消できるのに、それをしないで文句を言っているだけ。
ある人がゲイであると公言することによって、全体のイメージが作られてしまうのは、ゲイであると公言する人が少ないからに他ならない。ヘテロの誰かが「私は異性が好きです」と言ったところで、この人がヘテロを代表することにはならないのはワンオブゼムだからです。そうなるためには多くの人がカミングアウトする必要があります。
欧米各国で同性愛者の人権擁護の動きが高まり、同性婚が実現しているのは、それだけカミングアウトする人が増え、オープンリーな芸能人、文化人、政治家が増えたためであり、米国においてはACT UPが大きなきっかけになっています。彼らが顔を晒して路上に出て闘ったことの意義は繰り返し強調したい。
※写真は「怒りを力に」(UNITED IN ANGER)より。以下同。
武藤貴也でさえも
「同性愛者が誤解される」「あいつには名乗って欲しくない」という意見は、カミングアウトを抑制してしまいます。
そりゃ、好き嫌いはありましょうけど、それを口にしたらおしまいよ。その言葉は自分に帰ってくる。「あいつが代表するのは気に食わない」と思ったら、自分が名乗り出ればいい。自分を代表できるのは自分だけなのです。
武藤議員を報じたことを批判する理由が「同性愛者の政治家をあんなヤツが代表すると同性愛者のイメージが悪くなり、偏見を加速する」というものだとすると、その瞬間、誰もが公言できなくなってしまう。誰も同性愛者を代表できない以上。
それによってゲイへの偏見が強まる側面があるのだとしても、カミングアウトする人はそれ自体歓迎すべき。武藤貴也でさえも。歓迎はしなくても受け入れるべきであり、その上で、批判すべき点は批判すればいい。
武藤貴也については金の件を明らかにし、根拠なきSEALDs批判を謝罪させ、未成年の買春行為を追及すればいいだけのことです。
政治家の責任
「週刊文春」の記事を批判する、もう一点の根拠である「本人が不当にダメージを受ける」というのも、「ちょっと待てよ」というところがあります。武藤貴也はいったい誰なのか。
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