東海テレビが放棄したもの-「戦争を、考えつづける。」の問題点(松沢呉一) -2,730文字-
東海テレビの軽薄さとあさましさ
まずは東海テレビの公共キャンペーン「戦争を、考えつづける。」を観て、腹を立てていただきましょう。
この映像のひどさについてはFacebookに書きましたが、以下を読んでいただければいっそう理解できようかと思います。
東海テレビ@tokaitvのCMがまさかの「どっちもどっち」論
これは関西でカウンターに参加しているイトケンがTwitterの意見をまとめたもの。
東海テレビCM「戦争を、考えつづける」について ―ヘイトスピーチとカウンター
こちらはSEALDsのメンバーであり、写真を撮り続けているシンタヤベによるもの。
この映像自体の問題点はこれらで言い尽くされていると思うので、ここではちょっと視点を変えて考えてみたいと思います。
もっとも広告らしい広告
なぜこんなものが出来上がったのか。結論を言えば広告だからであり、電通制作だからです。どうでもいい商品に価値があるかのように見せかけるテクを、テレビ局という商品に使ったわけです。
映像の制作をすることが業務のテレビ局なのだから、自社で作ればいいようなものだし、そうしていれば、ここまでひどくはならなかったのではないか。しかし、自社制作だとこうもあざとくはできないので、広告としての話題性は作れないという判断だったのかとも想像します。
中身があるか否かではなく、中身がありそうに見せるテク。正しいかどうかではなく、キャッチーであることがそこでは求められる。広告というのはそういうもの。
ありのままを伝えれば事足りる広告もありますが、現実とかけ離れて幻想を作り出せるのがすぐれた広告と言えるかもしれない。他のすぐれた商品より、質の悪い商品が広告によって売れたら、それは間違いなくいい広告です。
実際においしいかどうかではなく、おいしいかもしれないと思わせることが広告では求められる。実際に便利かどうではなく、便利かもしれないと思わせることが求められる。実際に楽しいかどうかではなく、楽しいかもと思わせることが求められる。
それが行き過ぎた場合は不当表示として公取委から警告されたり、法で処罰されたりしますけど、売ることが使命である以上、そもそも広告は、誇大、過剰という方向に行きやすい。
「今までもこれからも考えません」宣言
東海テレビは何も考えてこなかったのだろうし、これからも考えるつもりなどないのだろうけれど、考えつづけるかのように視聴者に思わせることが広告では求められたわけです。考えてないのに考えているかのように見せかけることを求めた結果がこのありさま。
たしかにキャッチーかもしれないですな。戦後70年経ってもなおこの国では憎しみ合っているってか。
しかし、東海テレビはいったい何周遅れでこの問題を見ているのか。本当にヘイトデモと、それに対峙するカウンターは戦争になぞらえることができるのか。だったら、テレビ局の視聴率戦争も、代理店戦争も、戦争に類似していると非難してもいいのか。
差別とそれと闘うことはどちらも憎しんでいるのだから等価だというのが東海テレビのメッセージ。差別は放置しておけと。現にそれをやってきたのが東海テレビです。
キャッチーさを求めて、何も考えていないことを表明し、差別に取り組むことさえしないことを表明してしまいました。
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