松沢呉一のビバノン・ライフ

写真見世の時代へ-「吉原炎上」間違い探し 8[ビバノン循環湯 82] (松沢呉一) -4,710文字-

飛田新地の張見世-「吉原炎上」間違い探し 7」の続きです。

 

 

 

写真をめぐる遊廓の変化

 

vivanon_sentence遊廓ではいつの時代でも、どんな地域でも、どんな店でも、籬の向こうに遊女が鎮座して、客が指名する形になっていたと思われがちだが、大きな間違いである。近代に入ってから、客と娼妓が知り合う方法がどう変化していたのかをざっと確認しておく。

一般にイメージされるその方法は「張見世」と言われ、元来、小店の方式であった。つまり、張見世は揚屋を経由しない低価格の店のみの方式である。さもなければ客は中に入ってから「自分の好みではない」ということになるため、トラブル回避の意味合いもあったわけだ。

DSCN5879対して揚屋を通す大店、中店ではその必要はなく、揚屋で客は遊女の顔を見て、話をし、芸を見て、気に入らなければ初会で終わり。遊女側も同様である。気に入らない客は振る。

人目につくところに出てくるのは、妓楼と揚屋の行き来の時、つまり花魁道中の時だけである(この花魁道中は本来の意味の花魁道中)。

最初に誰を引き合わせるのかは、客の意向を聞きつつ、揚屋の判断次第。客の見立ては得意であったにせよ、どうしたって客の趣味に合わないことがある。

だったら、世は写真時代なので、事前に顔くらいは見られるようにしようというので、明治十年代に、大店、中店の中に、妓楼入口に写真を掲げるところが出てきて、これが話題になって、吉原だけではなく、他の遊廓でも真似をする妓楼が相次いだ。

張見世をしないがゆえに、写真くらいは見せてやろうという大店、中店のサービスであったり、装飾であったりしたわけだ。

ところが、これに対して娼妓たちからの不満が噴出する。今の性風俗でも水商売でもそうであるように、見た目は重要ではあれども、人気はそれだけでは決定しない。時に「なぜ」という見た目の風俗嬢やキャバ嬢が人気を集める。会えばわかる。しかし、会わなければわからないものなのだ。ここはいつの時代も同じ。

だからこそ、遊女の時代、娼妓の時代も、芸事を修練し、言葉遣いから身のこなしまで遣り手に叱られつつ磨いた。しかし、写真で決定されてしまうと、今までは揚屋での芸や立ち居振る舞い、話術などなどによって裏を返させることができた娼妓たちに声がかからなくなってしまう。

今まではそこまでを配慮して揚屋が采配していたわけだが、客が予め写真を見て名指してくるので、揚屋の力量を発揮する余地が減ってしまう。見栄えのいい娼妓にばかり客が集中するため、娼妓たちの声によって写真を公開するのはあっという間に廃る。これが第一期「写真見世」

※図版は『花街風俗志』より

 

 

写真の時代

 

vivanon_sentence明治初期、写真の大衆化が急速に進み、廓内にも写真館ができて、娼妓たちもこぞって写真を撮るようになると、その抵抗も薄れて、明治二十年代末に写真による見立てが復活する。今度は、大店、中店の妓楼単位で写真貼を作成して、それを揚屋に置き、誰を呼ぶかを客と揚屋が決定する際の助とした。これが「写真見世」の第二期

 

 

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