松沢呉一のビバノン・ライフ

遊廓に脳梅はいたのか-「吉原炎上」間違い探し 19[ビバノン循環湯 93] (松沢呉一) -3,075文字-

廃娼県・群馬の実情-「吉原炎上」間違い探し 18」の続きです。

 

 

 

そう簡単に脳までは冒されない

 

vivanon_sentenceドラマ「吉原炎上」で梅毒と思わしき病気に感染して脳に異常をきたした娼妓を登場させたのは「ああ、遊廓はおそろしや」という話にもって いく意図だろうが、こんなことが本当にあり得るのか? 脚本家は遊廓についての資料のみならず、梅毒についてさえ調べていないのではないか? ウィキペディアを見た方がいいと思う。

DSCN587115世紀から16世紀にかけて世界中にすさまじい勢いで蔓延した当時の梅毒は感染力が今より強く、病気の進行も早かったようだが、今現在、梅毒が脳に至る第四期までには感染から十年以上かかる。明治時代にはもう少し病原菌が強く、進行が早かったとしても、娼妓が遊廓にいる間に感染し、年季の間にそこまで至る可能性はまずない。

年季期間は通常六年までである。この期間は前借の金額によって定められたため、二年の年季もあれば三年の年季もあった。当然、途中で客に落籍されることもあった。その結果、娼妓の年齢は九割以上が二十五歳未満であり、十歳かそこらで感染していなければ、娼妓の間にはそこにまで至れないのだ。

昔はよく銭湯で感染すると言われ、とくに女児は床に直接尻をつけると叱られたように、性行為以外で感染することもあるので、十歳で感染することもあったかもしれないけれど、だとしてもなお娼妓の間に脳梅になるのは難しい。

「処女の娘が騙されて遊廓に連れて来られて泣く泣く客をとった」なんてファンタジーで欲情する人々には理解できないことだろうが、吉原に来る前に梅毒に感染していた女たちは多数いた。それが完治しないまま、鑑札を得る際の検査で見つけられずに娼妓になったのがいても、定例の検黴でいずれ見つかり隔離される。

※図版は『廓読本』より、健康診断風景

追記:羽太鋭治著『悪性慾と青年病』(大正11)によると、「奔馳梅毒」というタイプがあったらしい。第二期がなく、感染後二、三週間で第三期まで至るとあります。病気をめぐって、「今度はこんな凄いのが出てきた」といった記事がセンセーショナルに取り上げられることが今もありますが、事実、そのような症例が確認されたケースもあれば、ただの噂話に過ぎないケースもあり、症例が確認されても、他の病気との併発によるのもあるため、これについては引続き調べてみます。いずれにしても、完治できたわけではないにせよ、大正時代はもちろん、明治時代でも梅毒を寛解させることまではできていたのですから、鑑札を得るための検査、働き出して以降の検黴があった遊廓で、三期まで至ることはあり得ないと言っていいかと思います。

 

 

どうやっても遊廓内では脳梅になれない

 

 

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