松沢呉一のビバノン・ライフ

パターナリズムが固定する差別構造-「おっぱい募金」批判の蒙昧 1- (松沢呉一) -3,409文字-

 

糞食らえ、「おっぱい募金」を批判する糞ども

 

vivanon_sentenceかれこれ十年近く前に監修したロナルド・ワイツァー編『セックス・フォー・セール』、ナディーン・ストロッセン著『ポルノグラフィ防衛論』(いずれもポット出版)の2冊の翻訳本は、先行して性労働や性表現に関する調査や論考が多数なされている欧米の研究書を紹介することで、日本でもより活発な議51afdBc5xdL._SX314_BO1,204,203,200_論を起こしたいとの思いから手がけたのですが、あんまり売れなかったので、2冊で終わってしまいました。

もっと続けたかったのですけど、どうもこの国では性にまつわる事象を真剣に考えるとか、真剣に調べるといった姿勢には至らない人が多いような気がします。

今回の「おっぱい募金」を批判する人たちによる手垢のついた低劣な言葉を見るにつけ、「ホントにこの人たちは何も考えてないし、何も調べていない。何も考えず、何も調べなくても対処できる問題なのだとしか思っていないんだな」とつくづく実感しました。糞食らえであります。

「おっぱい募金」になお議論の余地、改善の余地があるのだとすると、ゾーニングの徹底くらい。と言っても、衛星放送であり、夜十時からの放送だったそうなので、皆さんがお好きな欧米基準ではすでにゾーニングをクリアしていて、あとはその表示を徹底するくらいでしょう。「台湾の桃色・フランスのローズ」に書いたように、フランスで実施しているレイティング表示をする。その程度の話です。

それをまあ次から次とパターナリズム丸出しの言葉をよくもまあ恥ずかしげもなく口に出来るもんですよ。

 

 

パターナリズムとは

 

vivanon_sentenceパターナリズムは家父長制的二重規範に基づく道徳に基づき、その差別構造を固定するものでしかないことをよく見せてくれる例を『ポルノグラフィ防衛論』から、ひとつ出しておくとします。

これは「フレッチャー論争」と呼ばれるもので、著者が勤務するコロンビア大学のロースクールを舞台に起きたものです。

 

 

一九九九年にコロンビア大学ロー・スクールで起こったある事例を考察してみよう。著名な刑法の教授であるジョージ・フレッチャーは、「女性に対して敵対的環境」を作り出しているという理由で一部の学生に訴えられた。(略)必修科目であるフレッチャーの刑法入門講座では、実在の重要事件について討議をし、 それに基づいて四八時間以内に提出する宿題形式のテストを実施した。このテストの設問が、子宮内の胎児と胎児を妊娠していた妊婦に対する残虐行為を赤裸々に描写していたからだった。

51ZtO3aizOL._SX320_BO1,204,203,200_問題となった設問は、女性の意思に反して悪意を持って胎児を殺害する堕胎の問題を扱っている。女性の権利や安全を擁護する人々にとっては深刻な関心事であることは確かだ。しかし、さまざまな学生や教職員は、この質問は女性にとって「不快」、「無神経」、「女性嫌悪」、「強迫的」、「権力の乱用」であると批判した。(略)リーブロン学部長は、「コロンビア大学ロー・スクールを代表して、多くの人が経験した不快感、苦痛に対し遺憾の意を表したい」と述べてい る。

一部の苦情は、試験の内容よりもその「論調」に向けられていたが、一方、中絶や女性に対する偏見に基づく犯罪など、女性が特別に関心を持つ問題は試験問題として取り上げるべきではないと指摘するものもいた。(略)

私は、ロー・スクールの同僚やその他の人々とフレッチャー論争について話し合ったが、言論の自由や女性の権利擁護論者を含む彼らは、フレッチャーがこのような試験問題を出題したことに対して咎めを受けるのは適切であると考えていた。フレッチャーには、教室を含むその他公開の場において、試験の課題を選ぶ自由があったことは彼らも認めている。しかしながら、彼らの考えでは、試験とは、学生が非常に弱い立場に置かれる状況であり、教授は学生を不公平または不平 等に扱うことのないように特に慎重にならなければならない。私も、確かにこの原則に同意はするが、試験問題に性的虐待、女性への暴力、中絶およびその他女 性特有の問題が含まれているからと言って、必ずしもそれが女性の権利を侵害していることにはならないと思う。

このような状況は、言論の自由や学問の自由を危機的な状況に追い込むだけでなく、女性の尊厳や平等すらも危機にさらすことになるのである。

ロー・スクールの女子学生が、このような犯罪の描写を要約したものですら直視することができないほどか弱いというのであれば、果たして彼女たちは、女性や妊婦への攻撃者を訴えたリンダ・フェアシュタインやその他指導者たちが経てきた道を辿り、訓練を受けることができるというのだろうか? 法廷において加害者と直接対決することができるのだろうか? 女性は、警官になって街で実際の襲撃者や加害者になりそうな人間と対峙する能力が劣っているというのだろうか? (略)

フレッチャーを批判する人々が主張する意見は、広い意味での女性の平等や権利拡大に矛盾し、家父長的—もしくは母性的—保護主義を帯びている。フレッチャー試験論争に関して、コロンビア大学ロー・スクールの二人の女子学生が大学新聞に宛てた手紙でこの点を強調している。

女性の扱いに特別な気遣いを要求するということは、女性は小さくか弱い存在で、不快なことを聞くことに耐えることも、男性にとってはごく普通の苦難に対処することもできないと暗に言われている様なものである。これこそが、女性に対する侮辱だ。性差別主義が横行する法曹界に女性が進出していくためには、女性をまったく対等な相手として遇し、平等の利点だけでなく重荷をもひるまず与えることが、最良の方法なのである

 

 

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