松沢呉一のビバノン・ライフ

『廓の子』に見る遊廓の現実-「吉原炎上」間違い探し 29[ビバノン循環湯 103] (松沢呉一) -3,047文字-

なぜふっくらした娼妓が多かったのか-「吉原炎上」間違い探し 28」の続きです。

 

 

 

加藤てい子著『廓の子』に描かれた遊廓

 

vivanon_sentenceここまでの話を確認するために再び小説を取り上げる。

のちに、雑誌「薔薇族」を出すことになる第二書房が昭和32年(1957)に出した加藤てい子著『廓の子』という本がある。この頃の第二書房は伊藤文学「薔薇族」編集長の父親が経営していて、文学書を中心とした出版活動をしていた。

IMG_7328著者の加藤てい子は福井市の妓楼で育った人物で、地元で新聞記者となり、劇団員を経て小説家になっている。

『廓の子』は、母が経営する妓楼が廃業するまでを描いた自伝的小説だが、この作品はいくつかの短編小説をつなぎ合わせたもので、そのために長編小説としてのまとまりに欠くところがある。

主人公の視点から外に出ないため、遊廓の全体像も社会状況も見えにくく、主人公の生活さえも見えにくいのだが、遊廓の女たちの生活を身近で見てきただけに、その点については非常にリアルな内容であり、遊廓での日常、娼妓の心理は体験した人にしか書けないものだと判断できる。悲惨な話もたくさん出てくるのだが、そこに向き合う人々の心の動きや態度は、想像のみで描いた小説とは一線を画す。

吉原炎上」の舞台である明治の吉原と昭和の福井では、時代や場所が当然違うが、小説としての出来はともあれ、地方都市の鄙びた遊廓のことを知るためには大いに参考になる本だ。古本で安く入手できるので、一読することを勧める。

 

 

加藤てい子の売春観

 

vivanon_sentence太平洋戦争開始を機に家業は廃業し、このあと主人公は新聞記者をなろうとすることを仄めかして『廓の子』は終わっている。主人公は妓楼という稼業に反対し、そのことも影響して経営者である母親は廃業を決意している。本書はその立場から書かれたものであり、主人公の考えは著者の考えそのものである。

この本の範囲だけでそう言っているのではなく、この著者がのちに出した『夜の報告書』(秋田書店・昭和40年)で、教師にそのことを笑われたことがあり、そのことで売春業に対する強い嫌悪感を抱いたとのエピソードが出ている。こちらは小説ではなく、自己の体験とルポ(っぽいもの)で綴られたノンフィクションだ。

『廓の子』はそういう著者が書いたものであり、遊廓、妓楼、売春というものを好意的に書く意図はまったく感じられない。暗い暗いトーンが最初から最後まで続く。それでもドラマ「吉原炎上」のように、「んなことあるわけねえだろ」といった非現実的な描写、社会の根拠なき思い込みをなぞるような描写はほとんどない。

対して、この『夜の報告書』は伝聞としか思えない話を見てきたかのように書き、一の取材で十に膨らませたことがわかる文章が並んでいて信憑性は薄く、記録としての価値もあまりない。

なぜそうなってしまったのかは簡単に推測できる。『廓の子』は自分が体験し、見てきた話が土台にある。脚色はあるだろうし、実際には存在しなかった人物を登場させたりもしているだろうが、小説であっても、現実に起き得る範囲を越えたことは書けなかったのだろう。対して、自分が体験したことではない世界のことは基準がゆるくなってしまうってことだ。

以下、『廓の子』に描写された娼妓の様子を見ていく。

 

 

死んだ四人の娼妓

 

vivanon_sentence上に書いたように、『廓の子』は、主人公の主観が強い小説で、自身を客体化する視点も弱くて、この小説の時点で主人公が何歳なのかもわからないのだが、仮に二十歳くらいだったとして、この二十年間に、彼女の母が経営する妓楼では、四名の娼妓が亡くなっている。五年に一人だから、一桁の娼妓しかいなかったと思われる小規模な妓楼としてはあまりに多い。

別の妓楼で起きていたエピソードを短編小説にし、それをまとめたためにこうなったのだろうとも想像するが、母親は借金で経営が苦しいことをぼやき、結局、妓楼を自ら閉じることになるので、もし事実通りだとしたら、娼妓が死にすぎて経営が成り立たなかったということだろう。

では、その四人の死を一人一人見ていく。

 

 

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