遊廓を維持したのは家族制度と道徳だった-「吉原炎上」間違い探し 32-[ビバノン循環湯 107] (松沢呉一) -3,090文字-
「娼妓の外出を制限した事情-「吉原炎上」間違い探し 31」の続きです。
なぜ浄閑寺を持ちだしたのか
原作では小花の遺体は姉が引き取って、浅草の墓地に葬られているのに、どうしてわざわざ改竄して、浄閑寺に葬られたことにしたのか。娼妓がいかに悲惨か、妓楼がいかに酷薄かを強調したかったのだろうが、酷薄なのは、遺体を引き取らなかった親族と、こういうファンタジーに酔う人たちである。
娘を働かせて金を得ながらも、遺体も引き取らず、葬儀にさえ来ない親がいたことは『廓の子』で見た通りだ。それこそを娼妓たちは悲しんだ。
原作において、主人公の久野と同じ楼の娼妓で亡くなったのは小花だけだったようだが、他の楼で亡くなった小萩という娼妓の話が出ている。これも肺病が死因である。当時の吉原には三千人近い娼妓がいたのだから、毎年のように結核で亡くなっていただろう。
このことを久野に教えてくれた娼妓は「遊女の悲しさ」として語っている。「この時代は、いかに多くの人たちが結核で亡くなっていたか」を語るエピソードであって、娼妓に限ったことではないのだが、親族のいないところで死んでいくのだから、家族の結束が強かった時代に強い悲しみはあったろう。
ここではもう一歩踏み込んで、なぜ病に伏した娘に会いにも来ず、死に目にも会わず、遺体の引き取り、遺骨の引り取りさえしなかった親族がいたのかを考えてみよう。
※写真は浄閑寺の慰霊塔
貧しさだけでは説明のできない現実
貧しかったから。それもたしかにある。
しかし、原作と時代が重なる明治十九年の「新吉原細見」に記載された出身地を見ると、七割以上の娼妓は東京府内に戸籍がある。関東に広げると八割に達する。残りの二割のほとんどは関西圏と中部圏だ。
このように細見にはしばしば出身地が記載されており、ものによっては細かな町名までが出ていることもある。プライバシーなどなきがごとく。おそらくこれは鑑札の登録に基づいたものと思われ、自己申告ではなかろう。
なぜそんなものを公開されて文句を言わなかったのか不思議だが、ある段階まで娼妓であることは恥ずかしいことではなく、むしろ誇らしいことであり、親族もまたしばしば誇らしく思っていた。これについては、このあと詳しく見ていく。
結婚歴があるのもいるため、出身地はまた別である可能性もあるのだが、東京やその近郊にいる親族が交通費さえ出せないほど貧しいとは思いにくい。したがって、遺体なり遺骨なりを引き取った親族もそれなりにはいたはずであり、そのことは原作にもあった通り。
しかし、交通費くらいは出せても、葬儀を出す金がなかった人たちもいた。だったら、妓楼に任せておきたいと考えた遺族もいたに違いない。
さらに言うと、娘の遺体、遺骨などどうでもいいと思っていた親たちがいたのである。
※図版は角海老のページ(次ページにも続く)。角海老では全二十二名中、東京が十五名、大坂(大阪)が四名、京都が二名、兵庫が一名。
娼妓の親たちの実像
一般には貧農の親が泣く泣く娘を身売りするという物語が信じられていて、昭和初期には冷害のため、東北地方を中心に、事実、そういうこともあったわけだが、明治においては極稀だったことが出身地からわかる。
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