百万の悲惨を無視する不思議-『女工哀史』を読む 8-(松沢呉一) -3,603文字-
「女工は性的肉体をも提供していた-『女工哀史』を読む 7」の続きです。
使い捨てられた女工
どこをとっても、女工が娼妓よりマシな労働環境だったと言える余地がないのだが、いくらいいものを食えたとしても、いくら着飾ることができたとしても、娼妓になれば性病に感染するリスクがあり、肺病で死んでしまうかもしれない。だから、娼妓の方が悲惨という意見もなおあるかもしれない。これっぽっちも調べる気もないアホの意見である。
すでに見たように、性病の蔓延は女工も同じ。女工の場合は誰もが感染するような行為をしていたわけではないので、その点ではマシかもしれないけれども、検黴があったわけではないため、発見されにくく、悪化しやすかったのだから、早くから梅毒に感染していた女工の鼻が落ちるドラマの方がまだしもリアリティがありそうだ。
それ以外の健康面でも比較にならず、女工の方が劣悪な環境だった。
昭和三十年代になってもなお機織りなどの繊維業に従事する女たちの健康状態が悪いことが問題になっている。狭い空間で、繊維のホコリが舞う環境で長時間働くこと自体が体に悪い。これは京都の伝統的な機織業を書いたものの中で指摘されていたことで、データも挙げられており、信頼できる話。戦後でさえもそうだったのである。
その上、戦前であれば、栄養状態も悪く、換気も悪く、住まいの環境も悪く、労働時間も長かったため、結核などの病気に感染するのが多く、だからこそ、大きな工場では医療設備を充実させるしかなかったわけだ。
しかし、治る見込みがなければ何の補償もなく解雇である。前借の額も女工はうんと少なかったため、使い捨てる感覚は工場の方がより強く、働けなくなった女工を抱えておくほどの温情もない。
病気になっても放り出さず、死ぬまで面倒を見た遊廓と違って、その前に放り出すのが工場である。
急性の病気では放り出すこともできず、そのまま亡くなる。遊廓では心中という名の殺人で命を奪われることがあったが、工場ではしばしば事故があった。娼妓と違い、殴った痕が顔や体に残ったところで仕事に支障はないため、日常的に暴力も行われていて、殴られて倒れ、機械に巻き込まれて亡くなった例が『女工哀史』に出ている。
工場には死体室もあった
工場には「死体室」という小屋が設置されていて、それを見た細井和喜蔵の感想は「地獄」。火葬するまでの安置所だが、安置というより放置といった方がいい粗末な小屋なのだ。
末期の水も飲ませてもらえないまま「地獄」に置かれ、すぐさま焼き場に運ばれる。「伝染病の疑いがあったために焼いた」と言い訳をしながら遺族にお骨を渡しておしまい。そうすれば、暴行の痕、事故の痕だって消すことができるってわけだ。
伝染性の病気だった場合はそうするしかなかったろうから、つねに工場が隠蔽のためにそうしていたわけではないにせよ。
この点においても、娼妓の方がずっとマシであった。遊廓では「死体室」なんてものは聞いたことがなく、いかに亡くなる女工が多かったのかがよくわかる。
これも別立てのシリーズでやる予定だが(まだ調べきれていない)、「投込寺」という言葉は、どうやら無縁仏のように、お通夜、告別式などの正規の葬儀手続きを経ずに焼かれることを指す「投込」という言葉から来ている可能性が高そうで、物理的に遺体を投げ込むことを指すのではないというのが今のところの感触。それで言うと、工場のやり方は、無縁仏だけではなく、親族が引き取る場合でさえも投込だった。
百人中七人が亡くなる女工
工場で亡くなった場合は遺族に弔慰金が支払われ、『女工哀史』には七十円から百五十円という数字が出ている。給料の二ヶ月分から四ヶ月分といったところ。
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