松沢呉一のビバノン・ライフ

性と道徳をめぐる確執-栗原康著『村に火をつけ、白痴になれ』より 4(松沢呉一) -2,909文字-

伊藤野枝の料理はたぶんうまかった-栗原康著『村に火をつけ、白痴になれ』より 3」の続きです。

 

 

 

道徳から逃れられなかった平塚らいてう

 

vivanon_sentence平塚らいてうが伊藤野枝を否定しようとした事情を『村に火をつけ、白痴になれ』の著者である栗原康はこう説明しています。

 

らいてうにとって、真の恋愛とは、男女のカップルが自由にむすばれることであり、たがいに契りをかわして永続的な共同生活をいとなむことであった。それをはばむように旧態然とした家制度や道徳は批判するが、永続的な共同生活のための道徳はなくてはならなかった。だから、それすらもぶっこわしてしまうような大杉と野枝の恋愛は、らいてうにとって不道徳以外のなにものでもなかった。大杉と野枝は、だれがどんなかたちで何人とつきあおうと自由だといっていたのだから。らいてうにとって、それはただの淫乱にほかならない。

 

 

辻まこと・父親辻潤 (平凡社ライブラリー)これこそが私が長らく指摘している「日本の婦人運動の限界」というテーマです。

平塚らいてう自身が、伊藤野枝を「淫乱」と言ったわけではないですけど、伊藤野枝に道徳を求めたのは、まさにこういう考えからだったのでしょう。大杉栄と伊藤野枝の関係は、伊藤野枝の料理同様、「不潔」だったのです。

辻潤に寄り添い(といっても辻潤は働かず)、大杉栄に寄り添う伊藤野枝は、果たして個人主義を貫徹できたのか否かについては議論がありそうですが、彼女は、人はいかにセックスをしようとも、いかに愛しあおうとも、ひとつにはなれないことを悟っていました。

判断の主体は社会ではなく、女総体でもなく、「私」という個人。残るのも「私」という個人。

 

 

最後は一人

 

vivanon_sentence以下は伊藤野枝による「自由母権の方へ」と題された一文の一節で、『村に火をつけ、白痴になれ』からの孫引き。

 

 

もちろん、ある男と女とが、愛し合うまでには、双方ともある程度まで理解しあうのが普通でしょうが、愛しあい信じあうと同時に、二人の人間が、どこまでも同化して、一つの生活を営もうとするのが、現在の普通の状態のように思います。

私はこんなものが真の恋愛だと信ずることはできません。こんな恋愛に破滅がくるのは少しも不思議な事ではないと思います。

 

 

大杉栄評論集 (岩波文庫)ミシンのように、個人と個人が複雑にからみあって、中心部もなく、命令系統もなく社会を構成する。そんなことを彼女は思い描いていました。その中に男と女の関係も位置する。

それが実現するものなのかどうかは置くとして()、これは立派な思想です。

建設的ではないなどと曖昧な非難をし、さらには人格や料理を否定するのではなく、伊藤野枝の考え方のどこが間違っているのかを正面から論ずればよかったのに、平塚らいてうはそこから逃げてしまいました。不潔な料理からあっさり逃げて、外食をしたように。

自分を守るために、そうしないではいられなかったのだと思います。

注.:私は近い将来に実現することはあり得ないと思ってます。これはインターネットが実現する夢の未來だったはずなのです。しかし、現実にどうなっているのかを見れば、夢物語でしかないことがよくわかろうかと思います。それでも伊藤野枝の言うことは無視できないものを含んでいるのです。

 

 

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