松沢呉一のビバノン・ライフ

宣戦布告を報じる新聞で笑う男女-昭和16年12月9日の日本(松沢呉一) -2,979文字-

開戦の日の新聞を読む二人

 

vivanon_sentence昨日、Facebookにこの写真が流れてきました。

 

 

 

 

銀座でしょうか。あるいは浅草か。

宣戦布告の記事ではない記事を見ているのかもしれないですが、笑顔です。女はスカートに洒落た帽子。男はポマードか何かで髪の毛を撫で付けています。

検索してみたところ、この写真はpinterestで公開されており、上の写真はここから転載しました。

そこには毎日新聞社『一億人の昭和史』に掲載されたものとあります。手にしているのも毎日新聞の前身である「東京日日新聞」の十二月九日のものです。しかし、毎日新聞のフォトバンクにこの写真は見当たらないため、新聞社のカメラマンが撮ったものではなさそう。

最初、この写真を見て、合成ではないかと疑いました。『一億人の昭和史』を確認していないので、その可能性はなおゼロではないですけど、開戦時にこんな格好をしたカップルが本当にいたのかどうか。こんな写真を掲載するメディアがあったのかどうか。

昭和初期のモガモボの時代の写真に開戦時の新聞をはめこんだのではないかと疑ったわけですが、そうではないとしたらいよいよこの写真には惹かれます。

この写真は「太平洋戦争が始まった頃はこんなにまだ日本は長閑だったのだ」と読むべきものではないのだろうと思います。確証はないながら、私がこの写真に見出した意味を説明しておきます。

 

 

戦時体制は早くから準備されていた

 

vivanon_sentenceそれ以前からあったとは言え、表現に対する締め付け、国民の生活に対する締め付けが本格化するのは一九三一年(昭和六年)九月十八日に起きた満州事変以降です。

市川房枝と「大東亜戦争」: フェミニストは戦争をどう生きたかそれでもなお一般に容認されやすい範囲で規制が強化されていて、一九三三年(昭和八年)、特殊飲食店営業取締規則ができます。これはカフェーを規制する法律です。個室を設置してはいけないだの、客引きをしてはいけないだの、店内を暗くしてはいけないだの、ダンスをしてはいけないだの。

さらに生活レベルまで規制が強化されるのは、一九三七年(昭和十二年)に始まる日中戦争がきっかけになっています。このあとのメディアは見事に戦争礼賛と耐乏生活のススメで埋まっていきます。新聞であれ、実話誌であれ、婦人誌であれ。

この過程で、さまざまな団体が作られていきます。それ以前から存在していた愛国婦人会に加えて、一九三二年(昭和七年)には大日本国防婦人会が発足します。両者は官製の団体であり、このふたつの団体が担った役割はよく知られるところですが、一九三七年(昭和十二年)七月七日の盧溝橋事件を契機に、もうひとつ、国民総動員のための民間の婦人団体がスタートします。日本婦人団体連盟です。

この団体は八団体による連合体であり、中心になったのは日本基督教婦人矯風会婦選獲得同盟であり、会長は矯風会のガントレット恒書記は婦選獲得同盟の総務理事であった市川房枝でした。

 

 

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