松沢呉一のビバノン・ライフ

「新吉原細見」で見る白縫-「白縫事件」とは? 4-(松沢呉一) -3,538文字-

白縫は自動車に乗ってやってきた-「白縫事件」とは? 3」の続きです。

 

 

 

花魁道中の中止と白縫の影響

 

vivanon_sentence波木井皓三著『大正・吉原私記』に掲載された吉屋信子による「白縫事件」のエピローグです。

 

伊藤大尉が本営へ戻って〈白縫事件〉を報告して了解を求めた時、今年も吉原で花魁道中が行われる事が、山室大佐にわかった。

「花魁道中は売春デモンストレーションだと当人が言うのですよ。頭がいいですよ」

伊藤大尉が笑うと、山室大佐は真剣な表情で「そうだ」と、うなづいた。そして、その五日後の四月十五日、救世軍代表の山室軍平は陳情書を伊沢警視総監に提出した。(中略)暁の聖歌―吉屋信子少女小説選〈1〉 (吉屋信子少女小説選 (1))

警視総監閣下は「閣下の既に早く知悉せらるる所に御座候」と書かれては、「そんな下情は知らん」とも言えなかったせいか、本年は花魁道中罷りならんと禁止となった。

白縫事件の花魁道中の情報も山室軍平には、こうして役立った。だが吉原ではまたしても救世軍奴(め)にやられたと憎悪を掻き立てられた。

その花魁道中廃止の動機をつくった白縫は、涼しい顔で吉本と同棲、相場師先生の懐もよかったのか、その年の八月末日に月賦返済完了となって、自由の身となって吉本と晴れて結婚となり、いったん郷里の広島に帰るという日に、彼女は救世軍本部に伊藤大尉を訪れて礼を述べた。

「亭主にはあまり理屈をこねん方がいいな」

と、伊藤大尉が注意をすると、元白縫さんは言った。

「大丈夫ですよ。やっとこれで理想の霊肉一致の生活に入れたんですもの」

〈霊肉一致〉という言葉は、大正のその頃の一つの新語彙だった。

廃娼救済係の快男子伊藤富士雄は莞爾として彼女のいわゆる〈霊肉一致〉の生活への祝福を送って玄関まで見送った。

伊藤大尉の自廃運動記録ノートのなかでも、この白縫の事件は明るい異色篇として委しく特記してあった。

以上が、「白縫事件」の全容です。

※図版は『暁の聖歌―吉屋信子少女小説選〈1〉』の書影

 

 

金を持っていた相場師

 

vivanon_sentenceここでいくつか確認しておくべきことがあります。

この記述だと、白縫が花魁道中を禁止させたきっかけになったように読めなくもなく、波木井皓三も「白縫の花魁道中を理由とした自由廃業を契機として、大正四年には、この花魁道中は廃止された」と書いていますが、沖野版では、このふたつを結びつけてはおらず、山室軍平の書いたものを見ても、白縫が影響を与えたとは思えません。

救世軍は前年も中止の申し入れをしていたのですが、すでに警察は許可を出していたため受け入れられず、この年、改めて中止の要望書を提出し、そこには前年の花魁道中がいかに広く喧伝され、風紀を壊乱し、青少年への悪影響を与えたのかを書き添えていました。

前年の花魁道中で拡散された花魁道中の写真の中には白縫がいたのですから、間接的には関与したと言えても、「白縫事件」は、この要望書を出す直前のことですから、それが契機で急遽要望書を出したとは思いにくい。

続いて、伊藤富士雄が「亭主にはあまり理屈をこねん方がいいな」と注意していることから、伊藤富士雄もやはり白縫の言い分は無茶苦茶であり、その調子でやられたら、たまったものではないことを充分に理解していることがわかります。「家庭ではおとなしくしろ」ということでありましょう。素直に言うことを聞く白縫ではありませんでしたけど。

 

 

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