前借と自由廃業の解説-「白縫事件」とは? 番外-(松沢呉一) -5,765文字-
「「新吉原細見」で見る白縫-「白縫事件」とは? 4」までの補足です。
自由廃業とは何か
救世軍が盛んに喧伝していた「自由廃業(自廃)」とは何かを理解していないと、この「白縫事件」も充分には理解できないかもしれません。
「自由廃業」というものがどういうものかわかっていない人たちは、「やめようと思えばやめられたのに、監禁されてできなかった」と思い込んでいたりします。歴史を調べようとしない者たちが、お粗末な想像力を働かせるからこういうことになります。
廃娼運動が盛んになってからは、妓楼はふたたび警戒心を強めていたため、怪しい娼妓には外出許可を簡単には出さなくなっていたのですが、白縫は堂々と自動車に乗って救世軍のもとにやってきました。許可をとって外出したのか、無断なのかわからないですが、現に出る気になれば出られたわけです。「監禁されて逃げられなかった」というのであれば、自動車でそのまま逃げればよかっただけ。
そして、警察や救世軍の立会のもと、妓楼と娼妓は話し合いをします。では、なぜ話し合いが必要だったのか。何を話し合ったのか。
「借金をどうするのか」を話し合ったのです。
「自由廃業とは何か」を理解するためには、「前借とは何か」を理解する必要があります。
前借は「まえがり」ではなく、「ぜんしゃく」と読み、「前借金」は「ぜんしゃっきん」と読みます。妓楼が娼妓に前もって金を渡し、その返済までは働き続けます。実際には娼妓の手に渡らず、親に渡ることが多かったわけですが、これを年期(年季)制度と言います。
金がなくなって、翌月支払いの給料の一部や全額を払ってもらう一般の前借りであれば法に抵触しませんけど、遊廓の前借は時に法律に触れるものなので、一般の前借りと区別をするために、年期制度に関わるものは「前借」という言葉を使用した方がいいかと思います。
※香蝶楼国貞による角海老の錦絵。以前も説明していますが、江戸から続いた角海老と現在の角海老は直接の関係はありません。
マリアルース号と娼妓解放
江戸時代と明治時代では、年期制度は内容が違います。そのきっかけはマリアルース(マリアルス)号にあります。拙著『闇の女たち』でも簡単に説明をしておきましたが、こちらでさらに詳しくその経緯を確認しておきます。
江戸時代は、前借によって、年期期間は身体を拘束され、労働をしなければならない契約でしたが、このような狭義の年期制度は明治以降は無効となります。
「芸娼妓解放令」によるものです。
1872年、横浜港に入港したペルー船籍のマリア・ルース号には、清国の苦力が乗せられており、うち一人が逃亡して、イギリス軍艦アイアンデューク号に助けを求めます。イギリス在日公使は日本政府に対し清国人救助を要請し、日本政府は奴隷契約であるとして清国人の苦力を下船させます。これを不服としたマリア・ルース号船長は訴えを起こし、苦力の扱いが奴隷契約であるなら、日本の遊女も奴隷契約だと主張。これを受けて慌てて日本政府が出したのがこの令。
このことを知っている人は、明治初頭に、遊廓が廃止されたのに、そののちまで違法で営業が続き、政府は黙認したと思っているかもしれないですが、まずはこの令を読むことを勧めます。正確に解説しているものが少ないので、そう誤解するのはもっともですが、遊廓は禁止されていないのです。
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