松沢呉一のビバノン・ライフ

新吉原総霊塔が描く浄閑寺—「投込寺ファンタジー」はいつ始まったか 1-(松沢呉一) -2,516文字-

※遊廓の女たちは亡くなると、三ノ輪の浄閑寺を筆頭とした「投込寺」と言われる寺に投げ込まれたと思っている人たちが少なくない。そう説明している本も多数ある。この誤解については、「投込寺の正しい由来」で説明しておいた。この間違った解釈は近代になって生まれたものではないかとの疑いを持っていたのだが、おおよそそのことがわかってきたので、まとめておいた。引き続き調べて確定させたいが、その中間報告ってことで。

 

 

波木井皓三の不可解さ

 

vivanon_sentence波木井皓三著『大正・吉原私記』のアンバランス」に書いたように、著者である波木井皓三は、自分自身の体験から、「関東大震災時に、大門の扉を閉じたため、逃げられなかった娼妓たちが多数焼け死んだ」という婦人運動家たちの主張をありえないこととして否定し、それを批判した久保田万太郎に「吉原での震災後の状況を体験した上に立って同意するのである」としながらも、デマを流した婦人運動家たちを擁護するというアンバランスな姿勢をとっていた。

これについては、もうひとつ問題がある。

自分の経験したことについてははっきりと間違いを指摘しながら、安政の大地震の際には、門を閉じて逃げられないようにしたために遊女が多く亡くなったと書いているのだ。

たしかに江戸時代の一時期は閉じられる扉があったのだが、出典も示しておらず、ただの噂話の類だ。おそらく根拠がないだろう。

これは安政の大地震の際に多数の遊女が浄閑寺に「投げ込まれた」という話に尾ひれがついたものだろうと推測する。どんどんどんどん現実から話がずれていき、それにこの著者は加担をしている。

結局この人は、この社会にある思い込みを内面化し、遊廓を現実以上に貶め、遊女ができるだけ悲惨であって欲しいと願っている俗物に過ぎない。ただし、自身が体験してしまった関東大震災時の吉原については、デマを受け入れられなかっただけなのだ。

※先日、浅草神社で、久保田万太郎の名前を見つけた。

 

 

「生れては苦界 死しては浄閑寺」はいつのものか

 

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浄閑寺にある新吉原総霊塔、つまりは無縁仏を合祀した慰霊塔の脇に「生れては苦界死しては浄閑寺 花又花酔」という川柳が書かれた石板が埋め込まれている。

 

 

 

 

この川柳はしばしば吉原の遊女たちの哀れさを表現したものとして使用されている。

大正・吉原私記』の冒頭にもこうある。

 

 

花又花酔のこの句ほど、はかなき吉原の遊女たちの運命と、その彼女たちの悲惨な薄命のゆきつく果ての、終焉の地であった浄閑寺の実態を、痛烈に且つ簡明に描写したものはない。

 

 

建立は昭和三十八年と記載されているが、この川柳は大正時代のものらしい。苦界という言い方は古くからあるにしても、浄閑寺を悲惨の代名詞のように扱っているのは、近代になってからの遊廓イメージが出来上がって以降のものだろうし、誤った浄閑寺イメージが浸透してからのものである。

 

 

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