松沢呉一のビバノン・ライフ

明治末期以降「遊女が寺に投げ込まれた物語」が完成—「投込寺ファンタジー」はいつ始まったか 4(最終回)-(松沢呉一) -3,232文字-

泉鏡花も「投込み」を「簡素に葬られた」という意味でしか使用せず—「投込寺ファンタジー」はいつ始まったか 3」の続きです。

 

 

 

成覚寺の場合

 

vivanon_sentence投込寺の正しい由来」に書いたように、新宿二丁目にある成覚寺もまた新宿遊廓の「投込寺」と言われている。新宿遊廓の無縁仏を葬る寺だったことを意味するのであればいいのだが、新宿区教育委育会は「年季中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られた」と説明した看板を建てており、当然、私はこの説明は怪しいと疑っている。

浄閑寺で安政の大地震の際に、「投げ込むように葬った」というところから、無縁仏のように簡素に葬ることを「投込み」と呼ぶようになったのだろうから、「投げ込むようにして」という表現は間違いとまでは言えないかもしれないが、なにしろ、世の中には『親なるもの 断崖』を読んで、あのようなことが近代の遊廓で実際にあったと思い込む、鼻くそほどのリテラシーしかない鼻くそみたいな人たちが多数いるのである。

現に「投込寺」は遊女の遺体は寺に投げ入れられたのだと思っている人、遊女が亡くなると必ずそうしたのだと思っている人たちがいるし、そう書いてあるものも多い。

正しくは「遊女が年季中に死ぬと家族が遺体を引き取ることになるが、引き取られない場合は、馴染み客が金を出して葬り、あるいは楼主の墓や妓楼の墓に葬った。それも叶わなければ共同で葬られ、その埋葬の金も楼主が負担し、その共同の墓石、慰霊碑の金もまた妓楼が金を出し合っていた」とすべきである。新宿区教育委員会にはもう少し慎重、もう少し正確な説明をお願いしたい。

 

 

成覚寺が「投込寺」とされるのは大正以降

 

vivanon_sentence国会図書館が公開しているものの中で、成覚寺について書いているものを片っ端から見てみたところ、「投込寺」としたものが出てくるのは大正に入ってからのことである。もちろん、無縁仏の遊女を葬る寺だったことは間違いがないとして、浄閑寺に続き、「投込寺」という呼称が広まるのはこの時期以降だと推測できる。

 

 

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