松沢呉一のビバノン・ライフ

西村伊作の売春肯定論—「体を売る」「女を買う」の違和感 1-[ビバノン循環湯 141] (松沢呉一) -6,064文字-

川奈まり子は共感できるフェミニストである」で触れた、西村伊作の売春肯定論について書いた拙稿を循環しておきます。これは1999年春に雑誌の連載に出したもの。『売る売らないはワタシが決める』が出る前です。

西村伊作の文章は、今読むと緻密さに欠けており、同じ「りべらる」で町田進が書いていたことの方がずっと的確。町田進の論は、多数のパンパンたちに話を聞いた上での結論ですから。しかし、町田進が書いていたことを通して読む前だったため、また、内容が私が書いていたことと酷似していたため、西村伊作の文章を最初に読んだ時はホントに驚きました。

小見出しは雑誌掲載時になんかついていたかもしれないですが、今回改めてつけました。

ここでは私も西村伊作も、「身を売る」「体を売る」「女を買う」という表現は、戦前の名残、つまり「身売り」から来た言葉と見ていますが、どうやらこれは違うようだと今は思っています。これについては次回書きますが、ここではそのままにしておきます。

 

 

 

「体を売る」「女を買う」の違和感

 

vivanon_sentence私が理解できないのは、「体を売る」「女を買う」という言葉遣いである。

こういった言葉遣いになにかしらの郷愁を見いだす人たちの気持ちはわからんではなく、人が使っていることをいちいち注意したりはしない。インタビューの際に相手がこの言葉を使用することをこちらで直すこともしない。また、こういった言葉遣いが広く使用されている時代の記述など、文脈上、使用することが適切であることもあるのだが、自身の言葉としては使わない。話し言葉においても、まず使わない。

その理由については、すでにまとまっている原稿があるので、ここに一部を転載する(注1)。

 

 

女を買う」といった言葉がよく使われますが、ここに私は強い違和感を感じます。「春」というのを快楽なり、性的サービスなりを意味する言葉だと考えるなら、「売買春」は特におかしな言葉ではないでしょうし、その意味での「売る」「買う」もいい。しかし、「体を売る」「女を買う」という言葉は、売る内容、買う内容としておかしくて、性労働を性的サービスを提供する接客業以上のものに見せかけ、誤解をも生む用語です。

例えばマッサージ師を呼ぶ時に「マッサージ師を買う」とは言わず、医者にかかる時に「医者を買う」とは言わず、スナックで酒を飲む時に「マスターやママを買う」とは言わない。 「女を買う」という言葉はそれこそ戦前の人身売買の時代のイメージを引きずる言葉であり、こういった言葉が、金を払っただけで相手を自由にできると勘違いする客を生み出すのですし、「売春するような女は何をされても仕方がない」との差別意識をも支えるのです。

金を払って性的サービスを受ける客や金をもらってサービスを与える女性や男性、あるいはスタッフでも、この用語を使う人はいます。しかし、この用語はそれ以上に、売買春を否定したがる人たちが好んで使う傾向もあります。

彼らは一向に現実を調べようとせず、現実を理解しようともしていないことの証左です。この言葉によって働く人々が悪影響を受けたところで知ったことではない人たちであり、だからこそ、この言葉を使えるのだし、あえて使っているのだろうと疑ってます。

 

 

もとは中国から来ているのかもしれないが、売春の「」が意味するのはストレートにセックスの意味だと思ってよさそう。春は動物にとって子作りのシーズンであり、気分も浮かれる。

今はあまり使わないが、同じ意味の言葉で「売笑」という言葉がある。「」は「」と同じような意味であることは、秘画を意味する「春画」と「笑い絵」という言葉からも推測できる。

売淫」という言葉もあって、蔑視の強い言葉ではあっても、売り買いするものが「淫」に限定されているという意味ではまだまし。

注1:当初、『売る売らないはワタシが決める』は、『売る売らないは女が決める』として、私個人の著書として出す予定で、そのために書いてあった原稿の一部。これは『売る売らないはワタシが決める』に掲載したのかどうか記憶にない。調べるのも面倒。

なお、文中に「性労働」という言葉が出ていますが、「セックスワーク」が一般化する前は、この言葉を私は使用してました。この用語も、リブの時代に使用されていたものです。あの時代に「売春は仕事である」という提起がなされていたのに、なんでフェミニストの間で、こういう論調が広がらなかったんですかね。

 

 

やっと見つけた西村伊作の「売春の自由」論

 

vivanon_sentence売春肯定の立場からでも、これを指摘したものを今まで見たことがない。こうなってくると、私の方が間違っているのではないかとも不安になってくる。

ところが、つい数日前に、ようやく仲間を見つけた。私が書いていることと、酷似しているので引用してみる。

 

 

春を買うというのは買い人の要求を満たすために品物を提供することで、春とは快い気持ちのこと、売春というのは、その快楽を売るわけだが、快感は買う人の気持ちなので、女のもって居る快感を男に与えるのでなく、女が身をもって男にサーヴィスして、男をよろこばせるのであるから、女はもって居る物を売るのでない。

按摩さんが身体を動かせて治療するのとおなじであって、按摩は身を売って居るとは云わない。医者でも職人でも会社員でも自分たちの身体を使って人々にサーヴィスをして、その代償として金を受ける。売春もそれと同じような社会奉仕なのであると考えられるのではないか。

身を売ることは人権的によくないとするというかもしれないが、売春をしても、鼻や耳や手足などを切ってお客に与えるのではない。女性のもつ能力をもって男性に奉仕するだけなのである。看護婦の仕事を身を売るとは云わないであろう。

身を売るというのは娼妓や芸者などが身を買われたり、人身売買と同じような契約をさせられることである。自由意思で男性を慰め、そのために男から金品をもらうのは身を売るとは言えないと思われる。

 

 

「按摩」「医者」という例までが一緒で、これを見た時は、自分の文章かと思いましたよ。

 

 

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