ムラはすでに存在しないのにムラの行動をとることの結果—下戸による酒飲み擁護 17- (松沢呉一) -2,693文字-
「ネットリンチに乗じる道徳団体—下戸による酒飲み擁護 16」の続きです。
制裁しても安心は得られず、自分も損をする
本当の村であれば、均質性を保つことで得られる安心は確実にあったでしょうけど、監視範囲、制裁範囲を拡大することでの安心は何もなく、むしろ安心を奪います。
過去の言動まで洗い出して叩く。一度失敗すれば、一生追われる。
今までであれば、ムラを出てしまえばよかったのですが、全国津々浦々まで制裁の手が伸びる状態です。
インターネット登場前であれば、エロ仕事をしたところでそう簡単にはバレませんでした。性風俗であれば、隣町で働けばいい。アダルトビデオに出たところで、パッケージ写真は修正をしますから、観た人にしかわからない。
しかし、今は映像が出回る。ヘルスで相手をしてくれた相手がその後タレントになったとして、それをわざわざネットでバラす。
バラされた側は、そのことをAVの問題かのようにふるまう。それに乗じる道徳団体が問題解決のためではなく、AV産業を規制するために利用する。結果、AVの締め付けが強まって、利用者も損をする。
自分で自分のクビを締めている。教科書にサンプルとして掲載されていいくらいの見事なまでのスパイト行動です。
信頼社会は遠い
日本人の特性、日本社会の特性は、日本の現実に合わせて合理的に作られてきたものであり、だから、今まではそれでうまくいっていました。
しかし、社会が変質しても、そのまま行動が残っているため、今まで以上に狭量で不自由な社会になり、道徳が力を持ってしまっています。安心のためのシステムのはずなのに、監視と制裁が強化されて、安心して暮らせない社会になってしまった。
エロに限らず、他者を制裁することで自分が損をし、社会全体が損をする。安全社会が崩壊してもなおムラの規範に従っていることが招くのは、ただただ不自由で、誰も得をしない社会であり、信頼社会への転換ができなくなるだけです。まさに今この社会はそういう瀬戸際にあります。
社会の変質に合わせてをシステムをリセットしなければならない。では、この先、日本はどういうシステムを作って新しい時代に適応していったらいいのか、そして個人はどうしていったらいいのかについても、山岸俊男著『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)にヒントがあります。ヒントだけしかないので、あとは自分で考えていただくとして、この辺でもとに戻します。テーマは酒です。
イザベラ・バードが記述する日本の酒
酒を飲みたくないのに「飲みません」「飲めません」と言えなかった人たちは、今までのムラ社会の論理に正しく従った行動をとっていました。ムラから外れることが怖い。外れさえしなければ安心できる。そのために飲みたくないのに飲む。
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