松沢呉一のビバノン・ライフ

なぜバードは看板提灯に触れなかったのか—『イザベラ・バードの日本紀行』雑感 6- (松沢呉一) -3,031文字-

バードと提灯について語り合いたかった—『イザベラ・バードの日本紀行』雑感 5」の続きです。

 

 

提灯の歴史

 

vivanon_sentenceイザベラ・バードの書き残したものを読むと、さまざまなところでひっかかりを感じるはずです。このひっかかりは、個人の興味や知識の蓄積によって左右され、人によっては食生活であったり、衣服であったり(これも私はちょっと気になったことがあります)、住居であったり、動植物であったり、疾病や薬品であったり。

通常であれば私は下ネタに食いつくところですが、そこはバードがほとんど書き残していないので食いつきようがなく、もっとも私が「これはどういうことか」と頭を悩ませたのは提灯でした。そんな人はほとんどいないと思いますが。

メルマガ「マッツ・ザ・ワールド」で提灯のことをずっと書いていた当時読んでいた人は(あんな地味な内容を読んでいたのは購読者の一部だと思いますが)、だいたいのことはわかっていると思いますが、それ以外の方のために、ここで提灯史をざっと書いておきます。

提灯は大陸渡来説と、日本起源説と大きくふたつあって、私は日本起源説をとっています。初めて登場したのは早くても室町時代であり、確実なのは江戸時代。

大陸渡来説では、弘法大師が中国から持ち込んだという説がもっとも古いのですが、これは伝説に過ぎず、証拠は何もない。ただそう言い伝えられているだけです。

由来がどこかとは別に、資料に基づき、もっとも古い提灯は平安時代であるとの主張があります。これは灯籠とは違う「挑燈」という言葉が出てきたことが根拠です。

この言葉は「ちょうとう」「ちょうちん」と読み、今も提灯を意味します。「挑」は「挑戦」「挑発」の「挑」。この言葉には「挑む」以外に「掲げる」という意味があります。

しかし、これが今の提灯だったとする裏付けがなく、おそらくこれは門の上に高く備え付ける松明のようなものだったのではないかと見られています。

つまり、平安時代、鎌倉時代から提灯があったとする説は、提灯ではないものを提灯だと見なすための誤解だとしてよさそうです。弘法大師説も同じ。たぶん持ち帰ったのは灯籠でしょう。

単に証拠がないだけでなく、発展のスピードから言って、何百年もの間、変化をしなかったと見るのはあまりに不自然です。

※浅草の提灯屋にて。製造から販売までをやっているところは都内にはほとんどもうないはず。文字入れと販売をやっているのが都市部の提灯屋です。

 

 

提灯の発展

 

vivanon_sentence提灯の定義に合致する提灯の絵が初めて登場するのは室町時代、または江戸時代とされています。初期に発展するのは携帯用の照明です。畳む必要がないのであれば松明のようなものや行灯でいいわけですから。

これが幕府の御用提灯になります。大名行列で棒で高く提灯が掲げられたり、岡っ引きたちが弓張提灯を手にしたり。この「御用」は「幕府専用の」「官許の」といった意味です。

また、祭礼用にも転用されていきます。葬列の前に出されたり、祭りの際に出されたり。祭礼用提灯は、いずれまた使用することがあるため、保管するには畳めた方がいい。そこから行灯より提灯が重宝されるようになっていきます。

祭りの提灯は山車行列の先頭に大名行列のように掲げられるだけではなく、神社や店や家の入口や軒下、路上に掲げられます。つまりは携帯用、移動用ではなく、固定用として使用されます。これが一大転機。

ここから発展してくるのが岐阜提灯です。盆の提灯として全国的に使用されるようになります。これも広くは季節ものの祭礼用提灯に位置づけられます。岐阜提灯は吊り用と床起き用と二種ありますが、いずれも固定用です。

 

 

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