由緒正しいおさせ・嶺玲子—ヤリマン列伝-[ビバノン循環湯 177] (松沢呉一) -2,504文字-
モダーンフリークスがやっているヤリマンイベントは東京でも大阪でもえれえ人が入るらしいですね。そこに行ったらヤリマンとセックスができるわけではなくて、ヤリマンの話を聞けるだけなんですけどね。
ヤリマンが好きな私ですが、ヤリマンだったらなんでも好きなわけではなくて、どういうタイプのヤリマンが理想かを見極めるためにその種類を分類したこともあります。
今回はヤリマンの歴史について書いたものです。これも「スナイパー」の連載です。最後に伊藤晴雨についても触れてますけど、これは媒体を配慮したものです。
好きなタイプはヤリマン
先日、知り合いに「松沢さんの好みの女性ってどういうタイプ?」と聞かれて、「ヤリマン」と答えて笑われました。本気で「好きなタイプはヤリマン」「結婚する相手の条件はヤリマン」と言い続けているのですが、なかなか理解されず、冗談だと思われてしまいます。
私の言う「ヤリマン」は「誰ともでもやる女」というより、「一人の男に縛られない奔放な女」「恋愛だの結婚だのといったノイズを排して、セックスを純粋に楽しめる女」ということです。そういう女に弄ばれたいです。ヤリマン、万歳。
私の場合、さらに条件がついて、ヤリマンの中でも百人に一人の選りすぐりのエリート・ヤリマンが好きなのですが、話が長くなるので省略。
一昔前の「ヤリマン」は、積極的、主体的な意味合いよりも、単に「誰とでもやる女」といった意味合いが強かったかと思います。対して、最近の「ヤリマン」は私が言う条件を満たすのが増えていて、「私、ヤリマン」と自称するのが出てきているのは、歓迎できる現象かと思います。
今はあまり使われなくなってますけど、昔は「させこ」「おさせ」という言葉がありました。これは「ヤリマン」よりずっと受け身な印象です。「やらせてよ」「えー、どうしようかな」「いいじゃん、減るもんじゃないし」「そうだけどさ」「頼むって」「じゃあ、いいよ」と三回頼むと断れないような女ってカンジです。こういう主体性がなく、依存的なヤリマンに私は興味がない。
戦前からあった「おさせ」という言葉
「させこ」「おさせ」という言葉は戦後の不良言葉かと思っていたのですが、歴史はもっと古い。
雑誌「人間探究」二十五号(昭和二七年五月発行)を読んでいたら、「おさせ」の話が出てました(「させこ」は出てなかったですけど)。
「人間探究」は第一出版社というところが出していた「文化人の性科学誌」でありまして、宮川曼魚、岡田甫、高橋鐵、宮武外骨、矢野目源一、斎藤昌三、中野栄三、宮尾しげお、藤澤衛彦、佐藤紅霞、福岡武男、正岡容、武野藤介、武林無想庵、岩田準一など錚々たるメンツが執筆しています。
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