松沢呉一のビバノン・ライフ

フォビアという病—なぜ他者の性を否定しないではいられないのか 7(最終回)-(松沢呉一) -2,489文字-

ゲイを抑圧するゲイの仕組み—なぜ他者の性を否定しないではいられないのか 6」の続きです。

 

 

 

抑圧者を容赦する必要はない

 

vivanon_sentence前回書いたように、内面化したホモフォビアによって、他者の選択を潰すに至れば、すでに被害者、犠牲者、弱者ではありえず、ただの抑圧者です。

ジョン・エドガー・フーヴァーがゲイであったとしても、批判していい。はっきりとした証拠は何もないながら、ヒトラーがゲイだったとの説を主張する人たちもいますが、これまたそうだったところで、被害者、犠牲者、弱者として容赦する必要がどこにありましょう。

その行動の背景にあるのが、この社会から植え付けられたホモフォビアだとしても、他者の選択を踏みにじるような連中を被害者、犠牲者、弱者として免罪する必要はない。ここではその属性がマイノリティかマジョリティかの別で判断するのではなく、他者を抑圧する者か、他者を尊重する者かで判断すべきです。まずここを確認しておきます。

この社会にあるホモフォビアの対象が自身であるからこそ、それを強く忌避するし、他者にまで介入をして、恐怖を消そうとする人たちと同じように、セックスフォビアのある人たちも、それを忌避したがる。セックス自体は薄汚いものだと思っている。だから愛とやらで浄化しなければならない。愛のないセックスは気持ちがいいわけがないのだと考える。

愛なんてもんがなくてもセックスを楽しめている人たちがいると、自分の信念(というか、ただの思い込み)が揺らぐので、是が非でも否定する。否定できなくなると、強制されているだの、精神に異常があるだのと言い出す。異常なのはどっちだ。

もちろん、フーヴァーやヒトラーのような権力を持っていた人たちと市井の人たちとを同じには扱えないですが、ただの抑圧者であるこんな連中を容赦する必要はありません。その属性が女であっても同じです。

※西門の蜜蜂

 

 

「おっぱい募金」批判派の正体

 

vivanon_sentenceホモフォビアの作用、セックスフォビアの作用を知れば、「おっぱい募金」批判派の正体が見えてきます。署名した人のすべてがそうだとは言えないまでも。ろくすっぽ呼びかけ文も読まずに署名したただのバカ、ただのおっちょこちょい、ただの薄っぺらな人間もいるでしょうから。

これまで書いてきた通り、「おっぱい募金」に対して、「ゾーニングが不十分であった」という批判なら理解できるとして、一定、ゾーニングがなされているものに対して、ゾーニングという考え自体を否定するような署名に協力し、出演者の意思までを否定してのけた連中のおかしさは、フォビアによるものとしか思えない。

さもなければ、ほっとけばいいことであり、観なければいいことです。公共性がゼロではないとしても、地上波の放送とは意味が違います。「観たくないなら観るな」と言っていい。教育テレビでも観とけ。

自己の安心を得るために、「エア海外」を持ち出したり、「エア違法性」を持ち出して告発すると脅す異常さも、これで納得できましょう。

彼らが守りたいのは、人権ではなく、ただの「道徳に基づく自己の安心」です。もしくは「制度の中に留まる自己の既得権」であり、その制度からはみ出す者を制裁したいだけの抑圧者です。あるいは家庭内で解決すべき問題を解決できない無能な親が、社会に解決してもらおうとしているだけです。

そんなもののために、HIVの啓発活動をする人たちを利用し、HIV対策に金銭的にも、啓発としても多大な貢献をしている「おっぱい募金」に難癖することもためらわず、事実確認も怠って誹謗中傷をする。それを弁護士の肩書きを持つ連中がやったことを私は一生忘れまい。自分ではHIV対策になんの貢献もしていないくせに、権力を振り回すクズめが。

※台北で見かけた「有害図書ポスト」。今時青少年はエロ本なんて読んでねえって。エロ本の顧客もDVDの顧客も中高年層です。当然のことながら、たんなるゴミ箱になってました。この青少年純潔協会はキリスト教系の団体。「ビバノン」でその経緯をさんざん書いてきましたが、日本において売防法制定を進めてきた人脈が、純潔教育、純潔運動を担ったことを思い出しましょう。一夫一婦制から外れるセックスのありようを否定したい人たちであり、その延長に売買春の否定があるのであって、人権とは無関係であることを見据えるべし。

 

 

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