松沢呉一のビバノン・ライフ

昭和20年代に実在したレズビアン喫茶-[ビバノン循環湯 204] (松沢呉一) -3,161文字-

※十年ほど前に「スナイパー」に書いた二本の原稿を合体させてみました。最後に唐突にSMの話を持ち出しているのは、そのため。

 

 

 

知られざるレズビアンバーの歴史

 

vivanon_sentenceゲイバーの歴史については調べている人が少なくないのだが、レズビアンバーについては調べている人を聞いたことがない。いるのかもしれないが、私は知らず、「いつからどこで始まったのか」も私はよくわかっていない。

積極的に調べているわけではなくても、ゲイバーについては私もだいたいの歴史はわかっているし、戦前にもそれに近い店があったらしき記事も見つけているのだが、古い雑誌を読んでいても、レズビアンバーの記事に出くわすことはほとんどない。今もそういう店が多いように、男子禁制が多くて、ゲイバー以上に閉鎖的なため、取材が難しいという事情もあったのだろう。

やっと見つけた記事のひとつは「実話と手記」(手帖社)昭和四一年一月増刊号「観光おんな読本」の「男子禁制 大阪のレスビアンバー潜入記」(この頃は「レズビアン」ではなく、「レスビアン」と表記しているものがよくあるが、ここでは「レズビアン」で統一する)。

この増刊号には全国の風俗産業の探訪記事、人妻やBG(女の会社員。今で言うOL)の生態をレポートした記事が満載されていて、ウソ記事であろうと思われるものも混じっているのだが、このレズビアンバーの潜入記は本物だと思われる。というのも、他の記事に比べ、思いきりエロ度が低く、たいした話ではないのだ。ページも後ろの方だし。

記者が客として入れたくらいで、そもそもこの店は「男子禁制」ではない。しかし、店の従業員はボーイッシュな女たちばかりで、店も明らかにそれを意識した営業をしていて、男子トイレもないと書かれている。

このDという店は道頓堀にあり、この時点でこういった店が大阪には十二、三軒もあって、遅くとも、昭和三十年代にはレズビアンバーが登場していたことは間違いない。

その数の多さから考えて、大阪が東京に先行していた可能性もありそう。記事ではタチらしき女たちを宝塚の男役になぞらえているように、大阪先行だったのは、宝塚の影響なのかもしれない。元宝塚の男役かヅカファンが経営者だったりして。

バンドの演奏に合わせて、女たちが体をくねらせてチークダンスを踊り、ボックスでも体をすり寄せて囁き合い、ポツンポツンといる男たちがそれを見ている様が描写されていて、これらの男らは女たちの妖しい姿を見るのが好きな人たちのよう。

女たちは、こんな男たちを一切相手にせず、店の従業員も男たちを無視するばかりで、記者は石ころのような気分になって、いたたまれなくなってしまう。

もしウソ話だとしたら、その中の女と仲良くなって、「結局男の魅力には勝てない」というオチになるところだが、この記事は情けない気分のままで終っている。そこがリアル。

 ※写真は新宿二丁目の「百合の小道」。現在は二丁目の各所に点在するが、ここにレズバーが何軒あったため、そう呼ばれるようになったらしい。

 

 

レズビアンの会「親和会」

 

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この記事は、客として入って、その店の様子を書いているだけで、「どういう経営者か」「いつどこで始まったのか」といった考察は一切ないのが残念。

続いて見つけた記事は「実話雑誌」に出ていたもの。「実話雑誌」は戦前から出ていた月刊誌で、経緯がよくわからないが、戦後は版元が東京三世社の前身である三世社に移っている。

その昭和二九年五月号に「女のための喫茶店」という記事が出ている。新橋「ミツコ」のママである橋本光子という人物の手記である。

 

 

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