松沢呉一のビバノン・ライフ

『女百面相』から下町の言葉—女言葉の一世紀 23-(松沢呉一) -2,338文字-

身分制度の消滅と言葉の画一化—女言葉の一世紀 22」の続きです。

 

 

 

山村愛花著『女百面相』より

 

vivanon_sentence近代の女言葉がどこからどう使われるようになったのかを論じた資料がないかと、国会図書館の公開資料を漁ったのですが、戦前はそれが当たり前のこととされてきたためか、それが国家にとって都合のいい家族制度と関わるために触れにくかったのか、改めて論じたものを見つけられず。

柳田国男あたりが書いていそうにも思うのですが、やはり見つからず。

無駄に読書をいっぱいしてしまいましたが、中では、ここまでにも使用した山村愛花著『女百面相 当世気質』(大正7年)が参考になりました。

この本は、さまざまな階層、職業の女たちを取り上げて、多くの場合はこき下ろす趣旨です。その指摘自体は、「時代から取り残されつつある頑固オヤジの戯言」と言ってもいいようなものでしかないのですが(著者は男か女か不明ですが、おそらく男だと思います)、それぞれの会話文が掲載されている点に注目しました。

「こういう女たちはこういう会話をするはず」という思い込みに基づいて著者が書いているものでしかないのですが、一部は特定個人と著者のやりとりになっています。それとて、どこまで実際の言葉を拾っているのかわからないですが、顕著に言葉遣いの違いが出ていて、それぞれの言葉遣いをそれなりには的確に再現しているのではなかろうか。

以下、この本から具体的に見ていきます。

 

 

下町の女は粋

 

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ここまで見てきた長屋の言葉遣いは、より大きな枠組みで言えば、下町の言葉ってことです。

下町の女」の章には会話文が出て来ず、著者の評価が続きます。

 

(略)由来下町といふと所謂商家の多いところ、国家の大法に抵触せない以上は独立独行少しも他の制肘などをうけて束縛される煩ひがないから、始めから自己の欲する処に向かって進行がされる、懐ろ都合つまり経済上の許す限りは凡て自己本位であって更に遠慮しなくも宜いのである。是れに反して山の手や屋敷町となってくると、今でこそ一列一対何の境界もないが、昔は多く屋敷者と称へられて幕臣でなければ大小名の扶持に浴するか、或は小糠三合貰っても残らず白痴脅しに赤鰯の田楽挿で、片臂張っては居るが自由の行動は取れなかったものである。然れど同じ野暮天の名は得て居ても下町に住む屋敷者になると、四囲の空気に触れて見やう見真似で段々其の風俗に慣れて来て、中々侮り難い尤物は随分あったが、それ等はまづ除外例として全般を覆へす科とはならない。

此に云ふ下町の女といふのは昔は江戸っ子の代表的女であった、勿論芸妓のごとき者を指したのではない、真面目な素人側を代表した称である。意気といふ事を有難かった時代の要求に応じた表現であったかも知れぬが、所謂江戸っ子の女といふとスッキリとした厭味のない、寧ろ淡白過ぎるほどサッパリとして五月の鯉の吹流しと云れる気象が閃いてゐた。其の面の輪郭や丈のノッポやデクデクの珍竺林やは暫くおいて、美人と云ず醜婦と云ず、アッサリした気分が自然の態度に現視されて居たのである。

 

商人中心の下町は自由、山の手は規則に縛られ格式張っているという評価は正しそうですが、これは江戸時代の話であり、前回書いたように武家の作法が国民全体に広げられて、徐々にこの区分は崩れていきます。国民全体が規則に縛られ格式張っていくわけです。

 

 

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