松沢呉一のビバノン・ライフ

なぜ戦前の公的文書には片仮名文が多いのか—日本語の表記 1-(松沢呉一) -2,435文字-

 

戦前の本は読みやすい

 

vivanon_sentence当初はそんなはずではなかったのですが、「ビバノンライフ」では古い資料を使ったものが増えてます。もともとそういうのが好きなものですから。

うちにもいっぱい資料はあるのですが、うちで探すより、国会図書館が公開しているものから探した方が早いので、使っている資料はたいてい皆さんもタダで読めます。できることなら原文まで読んだ方がいいと思います。私の読み間違いがあるかもしれず、気づいていないところに気づけるかもしれないですから。

歴史的仮名遣い(旧仮名遣い)のため、戦前の本を読むのが苦手な人がいるのですけど、こんなん、慣れです。十冊も読めば、今の本を読むのとそんなに変わらなくなります。

背景がわからないとか、固有名詞がわからないとかもあるわけですが、むしろ、戦前の本は総ルビ(すべての漢字にルビがついている)の本や、総ルビではなくてもルビが丁寧につけられた本が多いため、漢字が多くても読みやすい。ルビのない本は途端に読みづらくなったりしますけど、ルビがないのはそんなには売れないものですから、総ルビの本だけ読んどきゃいいんです。

歴史的仮名遣いを読むコツは慣れ以外の何ものでもないので、以下書いていくことを理解したところで急に読み進められるようになるわけではないのですが、興味を抱いていただくため、仮名遣いを筆頭に、古い表記についての話をまとめておくことにしました。

こういう話はずっとメルマガでやっていて、そのダイジェスト版みたいなものです。

※図版は青柳有美著『接吻哲学』(大正十年)より。こういう本も総ルビです。

 

 

表記の統一に無頓着だった時代

 

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今は編集者も書き手も、さらには一般の読者も、「表記の統一」ということを気にします。「こっちは漢字なのに、あっちは平仮名だぞ」「どっちも同じ漢字だけど、こっちは異体字だぞ」「こっちとあっちで送り仮名が違うぞ」「こっちは一人称が『僕』で、次の段落では『私』だぞ」と。

しかし、昔の人たちは、そんなことをさして気にしてません。校正がいい加減だったのも事実で、今よりずっと誤植が多いのですが、「表記の統一」については最初からあんまり気にしていなかったのだと思われます。今だと一冊の本の中では同じ表記で統一することが多いですが、昔の本では同じページ内で堂々と不統一があります。

パソコンの登場で、表記の統一が簡単にできるようになって、表記の統一が徹底した結果、不統一が以前より気になるようになっているだけで、話し言葉でも、「僕」と言ったあとで、「俺」と言うことはあるわけだし、文章によって「ここは平仮名の方がしっくり来る」ということもあるわけで、機械的に統一することの方がおかしいという思いが私にはあるのですが、それでも人の本を読む時は「表記の統一」が気になったりします。この方向には抗えない。

※雑誌「婦人世界」(実業之日本社)昭和二年七月号付録「美人学」より。この写真については次回取り上げます。

 

 

ルビの興趣

 

vivanon_sentenceもし「表記の統一」を緩和するとしたら、総ルビの復活をするのが早い。ルビなしに慣れているため、書き手も編集者も面倒ですけど、活字の時代に比べるとさほど手間はかからない。

昔の本のルビはただ読み方を指示するだけではなく、深みがあります。「民主主義」に「デモクラシー」とルビがついていたりしますし、通常はしない読みをルビにすることでイメージが広がったりするのです。

 

 

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