松沢呉一のビバノン・ライフ

印税の支払いを止められて追放へ—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 2-(松沢呉一) -3,330文字-

『女工哀史』の印税はどこへ?—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 1」の続きです。

 

 

 

浪費の日々

 

vivanon_sentenceわたしの「女工哀史」』の記述によると、としをは細井和喜蔵の著書について、まったく恩恵を受けなかったわけではなく、相当額の印税を得ています。

女工哀史』は買い取りが条件であり、その金は本が出る前に支払われています。としをが受け取ったのは、そのあとに出た三冊の単行本の印税です。

その経緯がすっきりしないのです。

正確を期するため、これに関する部分を引用しておきます。

 

 

『女工哀史』は原稿は買いとりだったので、金は一年前にもらっていたのですが、死んだ時には一文なしでした。だから葬式の費用は改造社からお借りしました。出版前にもらったそのお金で、和喜蔵と私がめいせんの着物を一枚ずつと私の羽二重の花もようの帯を買いましたが、ほかにはなにも買わず、私が働いて細井とぜいたくもせず暮して一年でなくなったのですからたいした金額ではなかったのでしょう。いくらもらったのか今でも思いだせません。

和喜蔵と子どもが死んで、一人ぽっちの葬式をだして、印刷屋の二階に引っ越した通算七十日間の生活費は、改造社はじめほうぼうからいただいたお見舞い金やカンパなぞで生活しておりましたが、だんだんお金もなくなり、体もよくならないので、死んでしまいたいと思いましたが、小寺さんや野呂さんや川田さんのご厚意を思うと、勝手に死んでは申しわけないし、困っている時でした。

十月の末に和喜蔵の二冊めの『工場』が出版されて、その印税が三百円ぐらいとおぼえています。そして十一月、十二月とつづいて二百円、三百円と受け取りました。それから『奴隷』『無限の鐘』とつぎつぎと改造社から和喜蔵の作品が出版されましたので、多い時には六百円ぐらい受けとりました。その当時の私はお金をもらってもちっとも嬉しくないし、やけくそになっていたので、このお金でなにをしようとも考えないで、ただどうしたらこのお金が早くなくなるか、なんだかお金を持つことが、なんの意義もないように思えてなりませんでした。

お酒をのんでも、上等の料理をたべてもおいしくないし、絹の着物をあいつらだけが着るものではない、私だって着る権利があると三越に注文して、上下ひとそろいと帯などを三百五十円で買って着てみて、やっぱり私は、木綿の絣か縞の着物を着て働くほうがよっぽどしあわせだと思い、二回だけ着て、近所の娘さんがお嫁に行く時あげてしまいました。思えば、せめてこの金が三ヶ月前にあったら細井父子の命は助かっていたのに、現代医学の恩恵も金次第なのかと考えると、金があるのがうらめしく、腹がたってならないので、やけくそで金を使ったのです。

 

 

ここに出てくる子どもは、和喜蔵が亡くなった時に腹にいて、大正十四年八月十八日に和喜蔵死亡。翌九月九日に男児誕生、その七日後に死亡。和喜蔵が亡くなった上に、としをは住む場所を移っており、それらの心身の疲労が影響したようで、赤ん坊は産声もあげず、乳を飲む力もなく、亡くなります。

これによって死ぬことも考え、また、自棄にもなります。

※書影は一九八一年に出た単行本版

 

 

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