松沢呉一のビバノン・ライフ

としをは細井和喜蔵と子どもの墓も作ろうとしなかった—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 4-(松沢呉一) -2,516文字-

藤森成吉は悪者か?—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 3」の続きです。

 

 

 

としをが手にした印税の価値

 

vivanon_sentenceいつものことながら、としをが手にした『工場』などの印税が現在いくらに相当するのかの換算は難しくて、消費者物価指数で換算すると千倍くらいの価値があります。

今で言えば、毎月数十万円の金が入ってきていたことになるのですけど、給与で換算すると、もっと価値があります。私はこの時代の円はその内容に合わせて千倍から三千倍にするのが通例で、それまでのとしをの収入で考えると三千倍くらいで計算するのが適切ではなかろうか。

工の収入は月に二十数円が標準。今で言うと、六万円から八万円くらい。それでもデタラメに安いと感じるでしょうが、当時はそのくらい末端の労働者の賃金は安かったのです。

としをが最初に働いた工場で、彼女はゴミ拾いくらいしかできなかったため、日給十三銭です。一ヶ月休みなしで働いても四円に満たない。今で言うと、一万二千円以下。食費などを引かれ、生活のための必要最低限のものを買うと一銭も残らなかったとあります。そりゃそうだ。

十八歳にもなると、としをは一人前に働けるようになり、なおかつ模範女工でもあったため、月に四十円から五十円になり、年末には賞与も出て給料を入れて百五円になったこともあると書いています。年収にすると六百円から七百円になります。これはこの工場自体の環境がよく、なおかつ特別な扱いだからこその数字です。

 

 

スイス製金時計を買う女工

 

vivanon_sentenceこの頃、としをは高い着物や帯を買い、銀座天賞堂でスイス製の金時計を買っています。三千倍にしたところで、月給十二万から十五万円ですから、「そんな月給で高い着物や金時計は買えねえよ」と突っ込まれそうなので、各自五千倍なりなんなりで計算していただきたい。何倍にするのかに決定的な基準はありません。

これが盗んだものだと警察に難癖をつけられて一週間にわたって拷問を受け、会社にもいられなくなります。労働組合潰しですから、名目はなんでもよく、着物や金時計を持ってなくても、なにかしらの理由でこうなったのでしょう。

少し時代は遡りますが、としをの父親はとしをが子どもの頃は炭焼きをやってました。のちに会社員となり、月給三十円とあります。賞与が百円以上ですが、年収五百円前後ですから、最盛期には娘の方が稼いでいます。

しかし、あくまでこのとしをの収入は特例です。関東大震災のあと、としをと和喜蔵は兵庫県にたどり着き、ここで夫婦揃って製繊所で働いており、この時は二人で月に三十円ほどでした。カツカツだったでしょうけど、それでも二人で間借りをして食ってはいけました(のちに検討するように、雑誌の原稿料も入ってきていたため、工員の収入だけではなかったのですが)。

多い月は印税が六百円ですから、金時計を買えるくらいの異例な条件に比較しても、女工の年収分なのです。驚きでしょう。兵庫県での収入で言えば、この一ヶ月の収入で二人合わせて二年近くやっていけたはずの金額です、それだけの収入があったからこそ、いきなり打ち切られたことに怒り、抗議したのだとしか思えません。

 

 

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