松沢呉一のビバノン・ライフ

斎藤美奈子による解説—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 5-(松沢呉一) -2,883文字-

としをは細井和喜蔵と子どもの墓も作ろうとしなかった—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 4」の続きです。

 

 

 

『わたしの「女工哀史」』の経緯

 

vivanon_sentenceずっともやもやしながら読み終わったのですが、印税の件については、『わたしの「女工哀史」』の巻末に出ている斎藤美奈子の解説「『女工哀史』のビフォーアフター」に詳しく記述されていました。ある意味、見事な解説で(今となっては皮肉です)、もやもやのある部分をクリアしつつ、別のもやもやをかき立ててくれました。

岐阜県にある聖徳女子短大(今現在の正式名称は「岐阜聖徳学園大学短期大学部」で、一九九八年に男女共学化)の「現代女性史研究会」が『女工哀史』を調べていく過程で、高井としをの存在を知り、伊丹市に住んでいたとしをに会いに行き、繰り返し話を聞いて、その聞き書きを『ある女の歴史』全五冊にまとめています。各30ページとあるので、冊子のようなものであり、としをは文庫のあとがきで「小さなパンフレット」と言っています。

ある女の歴史』は一九七三年から七六年に発行されていて、『わたしの「女工哀史」』は、これがきっかけになって一九八〇年に草土文化から単行本になっています。こちらは、聞き書きを再構成したものに、本人による書き下ろしを加えたものでした。

単行本の版元は聞いたことがなかったのですが、子ども向けの本が中心の出版社のようです。サイトが見当たらず、Twitterのアカウントはあるのですが、機能してません。

これが二〇一五年に岩波書店から文庫化。

よって前半は高井としをが「書いたもの」ではなく、「言ったもの」です。この経緯は簡単には高井としをによる「あとがき」でも触れられていますが、聞き書きであることは、解説を読むまでわかりません。ちょっと不親切。

私がここで論じていくのは細井和喜蔵との関係であり、つまりは前半の聞き書き部分です。これが聞き書きであった点には意味があろうと思っていますが、どれがどうか区別するのは煩雑なので、以降もすべて特に区別せずに扱います。また、聞き書き部分には聞き手の言葉や考え方が反映されている可能性がありますが、本人もチェックしているでしょうから、そこをあえて論ずる場合以外は本人の言葉とします。

 

 

 遺志会は印税を取り上げるために作られた?

 

vivanon_sentence解説によると、『ある女の歴史』は大学の研究会が出した冊子ながら、これが大いに話題になって、当時まだ存命であった藤森成吉はこれに反応、高井としをの言い分を批判する文章を「日本国民救援会」の機関誌「救援新聞」に発表。

日本国民救援会は、細井和喜蔵遺志会から「無名戦士墓」を引き継ぎ、今も管理をしている団体であり、人権に関する活動を続けています。通称「救援会」。ここは墓を引き継いだだけであり、引き継いだ段階で版元から金は得ていないはずなので、印税問題とは無関係です。

この批判文で藤森成吉は、まさに、としをが浪費することを見かねて、それを取り上げるために遺志会を作ったことを明らかにしています。

遺骨は最終的に藤森成吉が預かっていたそうです。としをが大阪に行く際に預けたのは詩人の重広虎雄です。そのままとしをは消えてしまったので、持て余して藤森成吉に預けたのでありましょう。もちろん、これは重広虎雄が悪いのではなくて、としをの無責任さによるものです。

その行状によって印税の支払いをストップしたのは不当というのが斎藤美奈子らの主張であり、私も最初にこの解説を読んだ時には「そうだったか。なんてヤツらだ」と思ってしまいました。すいません。本気で反省しています。その反省から、彼らに向けられた批判が不当であることをひとつひとつ明らかにしていくことを決意しました。

そう思ってしまったのは、としをが書くことをひとつひとつ検討していなかったからです。しかし、本文もこの解説も気になることが多すぎます。やはり世の中には、長い時間をかけて検討しなければならないことがあって、この解説は「もう一度この内容を検討するしかないな」と思わせる契機になりました。

 

 

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