松沢呉一のビバノン・ライフ

『女工哀史』はとしをも執筆した?—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 14-(松沢呉一) -3,079文字-

細井和喜蔵遺志会に渡った金の額—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 13」の続きです。

 

 

 

『女工哀史』は共作だったという主張のバカバカしさ

 

vivanon_sentence私には想像もつかない発想ですが、もうひとつ、計算の方法があるみたい。

すでに指摘したように、『女工哀史』は高井としをとの合作、共作だったという主張です。この主張はとしをも著作者であったことを意味します。

斎藤美奈子は『わたしの「女工哀史」』の元になった『ある女の歴史』をこう評価しています。

 

『ある女の歴史』の先駆性は、第一に『女工哀史』の裏面史を含めたとしをの人生を詳細に掘り起こしたこと、第二にとしをを『女工哀史』の共作者」と位置づけ、不当に軽視されてきたとしをに積極的な評価を与えたことだった。〈『女工哀史』はまぎれもなく、和喜蔵ととしを氏の共同・共作であり、その権利は守られるべきであり、たとえ『遺志会』といえどもこの権利を侵害することは許されるべきではない〉(『ある女の歴史(その2)』)とする杉尾敏明や高橋美代子の判断は至当だろう。

 

これは看過することができない。としをを持上げようとしたあまり、細井和喜蔵と『女工哀史』を貶めてしまっています。

ここで改めて『女工哀史』がすぐれたルポルタージュであることを確認しておきます。日本におけるルポルタージュは「探訪」と称され、この言葉からイメージされるものそのままに、街を歩き回り、軍と行動を共にし、各地を旅行するようなものです。「化け込み」もその一種です。

その点、『女工哀史』は「私」が工員として見て体験したことも含まれつつ、さまざまな人の証言を集め、新聞報道を拾い、データも記載されています。そこにこの本の説得力があります。こういう手法はそれまでにもあったでしょうが、客観性を高めたことにより、広く読まれるものとなったと言えます。

としをの体験談はその一部であり、一部でしかありません。さまざまな証言、さまざまな報道、さまざまなデータをまとめた本を出した時に、証言者やその支持者が謝礼を超えて印税を要求し、あまつさえ「共著だ」と主張してきたら、「頭おかしい」って話にしかならんでしょう。

「こういうことを言っているヤツらは全部頭がおかしい」で済ませてしまいたいところですが、グッとこらえてこんな可能性があるのかどうかも検討してみましょう。

※細井和喜蔵ととしをが住んでいた亀戸

 

 

としをにとっての細井和喜蔵

 

vivanon_sentenceとしをの貢献は情報を提供し、生活を支え、精神面でも支えたことであり、創作性に関与するものではありません。そのことは『わたしの「女工哀史」』を読んでもはっきりわかります。『女工哀史』を支えた人物の人生、人となりを理解することはできても、この本には『女工哀史』という本や細井和喜蔵を理解するための記述はあまりに少ない。

当たり前と言えば当たり前で、としをの一生の中で、細井和喜蔵と知り合い、亡くなるまでの期間は、大正十年(一九二一)五月から大正十四年(一九二五)八月までの四年三ヶ月です。「三年」と書いている箇所もありますが、これは同居を始めてからカウントしたもので、知り合ってからそれまでに一年ほどあります。

わたしの「女工哀史」』で和喜蔵のことを書いたのは、分量的にも少なくて、目次や解説を除いた270ページほどの本文の中で、生きている和喜蔵が出てくるのは、75ページから95ページまでの21ページしかない。関東大震災という大きなイベントがあって、それによって生活が激変した時期を挟んでいるにもかかわらず、本文の十分の一にも満たない。この21ページも、和喜蔵のことばかりを書いているわけではありません。

亡くなったあとのことや、印税のゴタゴタについて同じくらいの分量が使われ、以降は大阪が舞台となり、ここでも和喜蔵の妻であったことによる支障があったことの記述は出てきますが、118ベージで高井信太郎と再会して再婚。以降、和喜蔵のことはほとんど出てきません。信太郎との生活が始まり、子どもも生まれ、思い返すこともなかったでしょう。思い返すことがあれば「印税があれば」という程度。

 

 

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