松沢呉一のビバノン・ライフ

としをはアインシュタインの講演を聴いてなかった!?—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 26-(松沢呉一) -3,161文字-

下目黒がブルジョア臭い?—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 25」の続きです。

 

 

 

としをはアインシュタインの講演を聴いたのか?

 

vivanon_sentence星製薬の工場があった場所を確認したのに続いて星薬科大学に行くことにしました。最初からの予定です。

もうひとつ、としをが書いていることに疑問を抱いた点があったためです。

以下は『わたしの「女工哀史」』から、星製薬で働いている時のエピソードです。

 

それともう一つおぼえているのは、会社が若い人たちに勉強させるために、商業学校と薬学校を建てたのですが、その開校式の時に、女工も全部、出席させられたのです。その時にアインシュタイン博士がきて、演説をじかにきいたのです。中身はよくおぼえていませんが、相対性原理とかいうことで、私がその時に理解したことは。なにごとによらず片よってはいけない、男女の愛情でも親子の関係でも相対的なものである、ということでした。自分だけが一生けんめいつくしている、愛していると思ってもいけないし、両方が相対的につくしあったり、愛し合ったりすることが、人間の生き方とちがうか、というふうにうけとったのです。こんな偉い人の話が聞けたのは、いい思い出でした。

 

いいエピソードでしょう。最初に読んだ時はそう思いました。

この本の中でもとりわけ印象に残るエピソードのひとつです。今となっては細井和喜蔵もそうですけど、山本実彦、片山哲ら、歴史に名を残す人々がこの本には登場します。しかし、アインシュタインとなると、格が違う。それが星新一の父親の会社で工員をやっていたことから、唐突に登場するのです。その内容までは理解できないなりに、自分に引きつけた解釈をするとしをにも好感を抱きます。

しかし、よくよく見ると、この一文には注がついています。

 

星製薬商業高校の開校およびアインシュタインの来日は、いずれも実際には一九二二年である

 

どういうことだろう。星製薬商業高校(正確には星製薬商業学校)が開校した時のアインシュタインの講演をたまたま聴いて、のちに星製薬で働き出し、働き出してから聴いたように錯覚したのか? だったら、そう直せばいいのですが、この間違いは今回文庫にする際にやっと気づいて、すでに亡くなっている人に確認ができないため、そのままにしたのでしょうか。

アインシュタインの講演を聴いたことには違いがないにしても、気になります。

 

 

としをが聴いたアインシュタインの講演会の謎

 

vivanon_sentenceわたしの「女工哀史」』に記述されたアインシュタインに関する部分の意味がわからず、ネットを調べたところ、星薬科大学のサイトに沿革が出ていました。

 

 

 

 

 

星製薬が大正時代に創設したのはとしをの言うように「商業学校と薬学校」なのではなくて、星製薬商業学校であり、昭和十六年に星薬学専門学校を創設し、これが現在の星薬科大学になりました。時期を特定してないので、「商業学校と薬学校を建てた」でも間違いとは言えないかもしれないですが。

確かに沿革では星製薬商業学校の開校は大正十一年(一九二二)になっています。大講堂建設竣工は大正十三年(一九二四)。

としをが星製薬で働いたのは大正十三年か十四年のことです。このあと年表は昭和に飛んでいて、大講堂がいつ完成したのかわからないですが、大正十三年のうちか、翌十四年のことか。だとすると、時期は一致しています。

この完成と開校をとしをは混同しているのではなかろうか。短期しかいなかったので、なんの式典に呼ばれたかも知らなかったのだと思います。

しかし、アインシュタインは一回しか来日したことはなく、としをが星製薬で働いている時に講演ができるはずかない。

 

 

アインシュタインの名前がない

 

vivanon_sentence星製薬の人にも「アインシュタインが星薬科大学の前身の学校に来たという話があるのですが」と話したのですが、「知らない」とのことで、としをは何か大きな勘違いをしている可能性が高まってきました。

 

 

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