松沢呉一のビバノン・ライフ

岩波文庫「女工哀史」の印税は改造社へ—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 10-(松沢呉一) -2,558文字-

「東京新聞」の記事を検証する—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 9」の続きです。

 

 

 

百円でも警察が調べに来た

 

vivanon_sentence「東京新聞」によると、細井和喜蔵が亡くなったあと、としをは毎月百円単位の金を受け取り、トータルで印税が二千円にもなっていたようです。

これがどのくらい高額であったのかは、としをが書いているエピソードでよくわかります。

関東大震災時、亀戸にいた和喜蔵ととしをは身の危険を感じて名古屋、岐阜を経て兵庫県多田村にたどり着き、そこでしばらく二人で製繊所で働きながら過ごします。

その年の年末、改造社からの原稿料を受け取ります。百円です。当時、雑誌もまた定価が高く、原稿料はよかったのですが、「改造」一号分としては多すぎます。おそらく震災以降連絡がとれなかったため、落ち着いたところで、何ヶ月分かまとめて送ってきたのでしょう。

しかし、地元の郵便局にはそんな金はなくて(全額その場で受け取るってことは、為替のようなものだったのでしょうか)、としをは大阪まで金を取りに行ってます。

郵便局から連絡が行ったのか、翌日、それを聞きつけた警官がなんの金かを調べるため、家までやってきます。田舎町では受け取ることもできないくらい高額であり、受け取ったら警察がやってくるくらいの騒動でした。

これが「百円事件」という章タイトルにもなっています。この時、和喜蔵ととしをは工場で働き、二人で月に三十円の給金ですから、その三ヶ月分以上に相当します。

百円は今の価値で言えば三十万円程度ですけど(前に説明しているように、五十万円くらいに換算するのもあり)、この程度でも田舎町では一度に手にする人はそうそういませんでした。

※細井和喜蔵ととしをが東京を離れるきっかけになったのはおそらく「亀戸事件」です。この時に虐殺された一人が平澤計七です。

 

 

百円で大騒ぎになった時代に毎月数百円を手にいれたとしを

 

vivanon_sentence和喜蔵の死後はその何倍もの金が毎月入ってきていました。東京だから警察が来なかっただけの話。総計二千円です。「百円事件」の二十倍。

一般的な工員の年収が三百円くらい。監督といった役職つきで四百円くらい。兵庫県での二人の給料で言えば、賞与が出たところで二人でそのくらい。としをが今までもっともいい給料を得ていたのは十八歳の時の女工の給料だと思いますが、その時で年収六百円から七百円。高い着物や帯、スイス製の金時計を買えていた時代。

二千円は、一般的な工員の七年分に近い。これは給金が安いためでもありますが、着物や金時計を買えるくらいの特例的な収入の三年分をとしをは手にすることができたのです。つまりは着物や金時計を買う生活をしたところで、働かずに三年暮らせたはずです。

 

 

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